第82話【前編】

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「愚民ね…。ホッホッホッ…。」
ー何だこいつ…。本気でやばい奴なんじゃねぇの…。人が二人死んでんだぞ。なのにここで笑うか?
「どうぞ。」
三波の前にコーヒーが出された。
「大したものではありませんが。」
「いえいえ…先生直々にとはもったいない。ありがたく頂戴します。」
こう言って三波は出されたそれに早速口をつけた。
「はぁー。うまい。」
「それは結構なことです。」
小早川もまた自身が手にするコーヒーカップに口をつけた。
三波は周囲を目だけでさっと見回した。
書架には学術書のようなものが整然と並び、机にはラップトップのパソコンが配され、必要最小限の書類しかない。
何度か大学の研究室なるものを訪問したことがあるが、この空間は研究者の性格が出る。
この小早川のように本当に研究をしているのかと疑いたくなるほど整理された部屋もあれば、その逆に一体どこで作業をすればいいのかと首を傾げてしまうような散らかり具合の部屋もある。
小早川の部屋はあるべきところにあるものがあるといった感じを受け取られる空間だった。
ーん?
奥のデスクの上にもコーヒーカップのようなものがラップトップパソコンに隠れて置かれていることに気がついた。
ーじゃあ、いま目の前でこいつが飲んでるコーヒーってさっきの客の…。
ーとすると先客もいまの俺同様、お気に入りの人間だったってことか…。
「なんです?」
「あ、いえ。あまりに美味しいので。」
「ほほほ。本当にあなたはお上手ですね。」
ーそりゃそうだ。朝イチの突然の訪問も断らずに招き入れるくらいの客だしな。個人的な付き合いもあるんだろう。
「で、何の確認が必要なんですか。」
「あ、ええ。」
「私もそんなに時間がない。手短に終わらせましょう。」
「はい。」
三波はソファに座り直した。
「先生は早くから天宮先生の研究に補佐役的な立場で関わってらっしゃいましたね。」
「そうです。」
「それはいつからのことでしたか。」
「私が大学院へ進んだときからです。」
「1984年。」
「そうだったかと…。天宮先生が准教授になられたのと同時にといった感じだったのを記憶しています。」
「先生が天宮先生の門を叩いたきっかけって何だったんでしょうか。」
「誰もが先生にあこがれていましたから。」
「といいますと。」
「本学で准教授でありながら研究室を持つほどに成功している研究者は、片手で数えるくらい。天宮先生はその中で最も若かった。将来を嘱望される人の元で働くことは自分の将来設計にも有益に作用するし、学びも大きいでしょう。いわゆる成功への近道ですよ。」
「学術的探究心からというわけではない、ということですか。正直ですね。」
「隠したところで何も変わりません。」
「確かに。ですが小早川先生。あなたは未だに准教授です。」
小早川の表情が曇った。
「なぜでしょうか。」
「それは…。」
「天宮先生がかえって重しになった。」
小早川は驚いた顔をした。
「なぜそれを…。」
「先生はあくまでも影であり続けるよう、天宮先生に頼まれた。その代わり退職までの面倒はちゃんと見る。」
「教授。しかも東京第一大学の。社会的地位、名声、富。その大半のものが手に入る誰もが成りたがる役職。私はこれの近道であるとして天宮先生に師事した。しかし…。」
「しかし。」
「先生の仕事ぶりを間近に見るにつけ、私には彼の代役など到底無理だと感じるようになったんです。」
「…それほどまでに東一での天宮先生は激務だった。」
小早川はうなずいた。
「朝早くから夜遅くまで自分の研究以外にも、教え子や我々のような研究班に気を配り、かつ学内の政治闘争に揉まれ、自宅ではそれがために家庭はほぼ崩壊。プライベートなんてものはあの方にはなかった。私にはとても先生の代わりなんかできなかった。」
「天宮先生はそんなあなたの状況さえも察し、自分の片腕の准教授として東一で勤め上げられるよう学校に働きかけた。」
「そうです。天宮先生の代わりとしての東一の教授職。これは荷が重かった。」
「なるほど。」
「しかし東一でなければ話は別。」
「天宮先生の多忙さは東一という環境が要因だったと?」
「はい。」
「それはどういう意味ですか?」
「自由になれます。」
「え?」
「東一特有の閉鎖空間。これが教授を激務にさせるんです。」
「具体的に。」
「忖度です。」
「忖度。」
「明確なヒエラルキーがあるんです。この世界には。そこで異常なほどの忖度が必要なんです。」
「噂では聞いていましたが、そこまでなんですか。」
「はい。」
「つまり先生は本学にお越しになることで、学問的にも身分的にも自由を得られるようになる。」
「はい。その分いい働きをすることをお約束します。」
「…その言葉を待っていました。」
不敵な笑みを浮かべた三波を見て、小早川はほっと息をついた。
「…これでよろしいですか?」
「ええ。私が説き伏せます。」
「あなたは本当に頭がいいですね。」
デスクの電話がなった。
「失礼。」
机の方に移動した小早川はそれに出た。
「はい。…石川大学?」
ーえ?
「ああ、つないでくれ。」
彼は三波の方をちらりと見た。
ーやばいぞ…。
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