主の御前でへりくだりなさい
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今回は、「主の御前でへりくだりなさい。」(ヤコブ4:10)からのメッセージです。へりくだる、そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます、との約束が続いています。へりくだる生き方を学んで行きたいと思います。ところで、前回は「平和をつくる人になろう」(ヤコブ3:18)とのテーマでメッセージを語りました。私たちはイエスに出会い、罪を悔い改め、人生が変えられて新しい生き方をスタートした者たちです。神はそのような私たちを、平和をつくる人に、また義の実を結ばせる種を蒔く人にならせようとしておられるのです。平和をつくる、種を蒔く、そのような積極的な面を持ちながらも、いつでも主の御前でへりくだることのできる謙遜な信仰者でありたいと願っています。それでは、ヤコブの手紙4章1-17節を読んでみてください。
4章1節では、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」と書かれています。戦いや争いはどこででも起こります。私たちが生きる今の社会でも、また、教会の内部でも起こってきます。欲望と訳されているギリシャ語は、別の箇所では、快楽(ルカ8:14)とか肉の欲(Ⅰペテロ2:11)と訳されています。決して良い言葉ではありません。しかしながら、アダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放される悲しい出来事は、どんな人間も心の内に罪を宿して生きる存在であることを教えています。そのことは、カインが弟のアベルを殺すという大きな悲しみを伴って明らかになりました。人は罪の性質を持って生きているという現実と、イエスを信じる者は罪の赦しをいただき、聖霊の助けによって、罪を治めて生きることができるという現実があるのです。ヤコブは人の罪、戦う欲望が原因で争いが起こってくることを指摘しています。2節では、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。」と書いています。カインとアベルの出来事が背景にあるようです。しかし、ヤコブは視点を変えて、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」と書いています。願わないからである、本当に神に願うならば神は答えてくださる、そのようにヤコブは理解しています。3節には、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と続いています。皆さんはどうでしょう。どのような動機で祈りをささげているのでしょうか?聖書の約束をいくつか見てみます。詩篇34篇15節には、「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。」とあります。ルカ18章13、14節には、罪を悔いる者の祈りを神は聞いてくださることが教えられています。さらに、第一ヨハネ5章14節には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」とあります。動機が正しく、罪を悔いて祈る祈りを神は答えてくださるのです。祈りは答えられる、それなのにあなたがたは正しい姿勢で祈らない、自分の快楽のために使おうとしているからですよと指摘しています。
5節では、「それとも、神は、わたしたちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」と書かれています。私たちの内には、神が人にいのちの息として与えた霊(創世記2:7)が与えられているのです。人間は霊的存在であり、単に肉の欲で生きるものではないのです。神ご自身がねたむほどの愛を持って私たちを愛しておられるのです。参照出エジプト34:14。さらに、6節では、「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。」と書かれています。さらに豊かな恵みとの言葉は、ローマ書5章20節にあるように、罪の増すところには、神の恵みも増し加わるとのみことばを思い出させます。だからこそ、人間は神によって創造された被造物であることを忘れないで、へりくだる者であるようにと勧めています。へりくだる者とは、自分の不完全さを認めて、神により頼み、神の与えてくださる救いを待ち望む者のことです。そのような者に神は恵みを授けてくださるとあります。
今はコロナ禍の中、多くの者が心配や苦しみの中に生きています。特に14節の言葉が私の心に響いてきます。「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」消えてしまう霧にすぎない、何てはかないものではないでしょうか。続いて、15節で、「むしろ、あなたがたは、こう言うべきです。主のみこころなら、私たちはいきていて、このことを、または、あのことをしよう。」と書かれています。主のみこころがあるのです。そして、生かされて成すべきわざがあるのです。このような聖書の言葉を私は厳粛な気持ちで受け止めています。
だからこそ、15節にあるように、主の御前でへりくだる者でありたいと心から願っています。罪深い私たちを神は愛してくださっています。御子イエスの十字架での犠牲が私たちに与えられているのです。ピリピ2章8、9節には、「キリストは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、」とあります。私たちもキリストの歩みに習い、主の御前でへりくだる者でありたいと願っています。反対に、むなしい誇りをもって高ぶる人生もあります(16)。彼らは、世の友となり、神の敵として生きるのです。そのような人生があることをも認識して、神に近づく者、涙を流す者、へりくだる者でありたいと願っています。主があなたがたを高くしてくださるとの約束を信じて。
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4章1節では、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」と書かれています。戦いや争いはどこででも起こります。私たちが生きる今の社会でも、また、教会の内部でも起こってきます。欲望と訳されているギリシャ語は、別の箇所では、快楽(ルカ8:14)とか肉の欲(Ⅰペテロ2:11)と訳されています。決して良い言葉ではありません。しかしながら、アダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放される悲しい出来事は、どんな人間も心の内に罪を宿して生きる存在であることを教えています。そのことは、カインが弟のアベルを殺すという大きな悲しみを伴って明らかになりました。人は罪の性質を持って生きているという現実と、イエスを信じる者は罪の赦しをいただき、聖霊の助けによって、罪を治めて生きることができるという現実があるのです。ヤコブは人の罪、戦う欲望が原因で争いが起こってくることを指摘しています。2節では、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。」と書いています。カインとアベルの出来事が背景にあるようです。しかし、ヤコブは視点を変えて、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」と書いています。願わないからである、本当に神に願うならば神は答えてくださる、そのようにヤコブは理解しています。3節には、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と続いています。皆さんはどうでしょう。どのような動機で祈りをささげているのでしょうか?聖書の約束をいくつか見てみます。詩篇34篇15節には、「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。」とあります。ルカ18章13、14節には、罪を悔いる者の祈りを神は聞いてくださることが教えられています。さらに、第一ヨハネ5章14節には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」とあります。動機が正しく、罪を悔いて祈る祈りを神は答えてくださるのです。祈りは答えられる、それなのにあなたがたは正しい姿勢で祈らない、自分の快楽のために使おうとしているからですよと指摘しています。
5節では、「それとも、神は、わたしたちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」と書かれています。私たちの内には、神が人にいのちの息として与えた霊(創世記2:7)が与えられているのです。人間は霊的存在であり、単に肉の欲で生きるものではないのです。神ご自身がねたむほどの愛を持って私たちを愛しておられるのです。参照出エジプト34:14。さらに、6節では、「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。」と書かれています。さらに豊かな恵みとの言葉は、ローマ書5章20節にあるように、罪の増すところには、神の恵みも増し加わるとのみことばを思い出させます。だからこそ、人間は神によって創造された被造物であることを忘れないで、へりくだる者であるようにと勧めています。へりくだる者とは、自分の不完全さを認めて、神により頼み、神の与えてくださる救いを待ち望む者のことです。そのような者に神は恵みを授けてくださるとあります。
今はコロナ禍の中、多くの者が心配や苦しみの中に生きています。特に14節の言葉が私の心に響いてきます。「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」消えてしまう霧にすぎない、何てはかないものではないでしょうか。続いて、15節で、「むしろ、あなたがたは、こう言うべきです。主のみこころなら、私たちはいきていて、このことを、または、あのことをしよう。」と書かれています。主のみこころがあるのです。そして、生かされて成すべきわざがあるのです。このような聖書の言葉を私は厳粛な気持ちで受け止めています。
だからこそ、15節にあるように、主の御前でへりくだる者でありたいと心から願っています。罪深い私たちを神は愛してくださっています。御子イエスの十字架での犠牲が私たちに与えられているのです。ピリピ2章8、9節には、「キリストは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、」とあります。私たちもキリストの歩みに習い、主の御前でへりくだる者でありたいと願っています。反対に、むなしい誇りをもって高ぶる人生もあります(16)。彼らは、世の友となり、神の敵として生きるのです。そのような人生があることをも認識して、神に近づく者、涙を流す者、へりくだる者でありたいと願っています。主があなたがたを高くしてくださるとの約束を信じて。
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