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「いなくなった一匹の羊」_北澤牧師

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主イエス・キリストの語られた6つの譬え話 その1
 ルカの福音書15章1節~7節
①主イエス・キリストの語られた6つの譬え話から、神さまのメッセージを受け取ってゆきたいと思っています。
きょうは、その第一回として、「いなくなった一匹の羊の譬話し」の所をご一緒に読んでゆきたいと思います。
・この譬え話は、当時の人たちのだれでもがよくわかる話でした。
また、現代に生きている私たちにとっても、この話はけして難しいものではありません。
・100匹の羊を飼っていた羊飼いがいて・・、その羊飼いは、ある日、その羊たちを連れて野に出ていったのです。 しかし、しばらくすると、羊飼いは、その中の一匹がいなくなっていることに気づきました。
・こういう場合、その羊飼いはどうするのだろうか・・この譬え話には、こういう問いかけがあります。
・主イエスは、「羊飼いは、残っている羊99匹を野に置いて、いなくなった一匹の羊が見つかる迄、捜し
歩かないだろうか・・そして、見つけたら、大喜びして、その羊を肩に担ぎ、帰って来て、近所の人を集め、
一緒に喜んでくださいと言うのではないだろうか・・」そう語られるのでした。
・ここで、主イエス・キリストは、私たち人間たちを、羊に例えておられます。
このように、神の民を、羊に譬えるというのは、旧約時代からイスラエルの民の伝統でした。
・詩篇には、人を羊に譬えている詩がいくつもあります。皆さんよくご存知の、詩篇の23篇もそうです。
この詩篇は、「主は私の羊飼い」と始まります。 私は一匹の羊、主は、その私の羊飼い・・そう詠われている
有名な詩(うた)です。
・この23篇よりも、今、私たちが注目すべきは、詩篇119:176の所にあるこの御言葉です。
「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。 どうか、あなたのしもべを探してください。」
・当時の人々は、祭りのときなどで、おりにつけ詩篇の言葉を聞かされていました。ですから、この主イエスの
譬え話を聞いた当時の人たちは・・とてもわかりやすかったと思います。
②この譬え話の、その最も大事なメッセージは、4節の所にあります。
・それは、こういう意外性のある問いかけです。
「もし、一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、
いなくなった一匹を見つけるまで、捜し歩かないでしょうか・・」
・皆さんは、この問いかけに対して、どのようにお答えになられるのでしょうか・・
皆さんが、百匹の羊を持っている羊飼であったら、その中の一匹がどこかに居なくなってしまった場合、 
皆さんだったら、どうなさるでしょうか・・。 
・主イエスは、ここで、そういう問いかけを、私たち一人一人にしておられるわけです。
・この4節の言い方は、聞いている者が「はい確かにそうします。」という、そういう肯定的な返事をする
ことを想定した言い方になっているのですが・・しかし、私たちは、はたして本当に、そういう肯定的な
返事をする一人一人なのでしょうか・・
・また、主イエスは、5節6節で、このように言われます。→ 「もしその一匹が見つかったら、
 友達や近所の人たちを呼び集め、一緒に喜んでください。と言うでしょう・・。」
・この問いかけも、「はいそうします。」という返事が帰って来ることを想定した言い方になっているのですが、
私たちは、はたして、そういう判断をする一人一人なのでしょうか・・。
・皆さんの、心の中の、そのお返事が、どういうものか・・それはわかりませんけれども・・
・私でしたらこのように答えてしまう、と思います。 
「いいえ、私は、やっぱり、探しには行かないと思います。」
「また万が一、この羊がひょっこり返って来たとしても、そんな、大喜びして宴会などをひらく、
そのようなことはしないと思います。」
・現代の日本で、羊を飼うという仕事についておられる方は、極めて稀ですから、この譬え話を現代風に変えて考えてみようと思います。 
・教会生活ならば似たような出来事が考えられます。
例えば・・この私が、皆さんの教会の主任牧師をしているとして・・皆さんの中のお一人が・・殺人事件を
起こし、刑務所に収監されてしまった、とします。
・そうのようなことが起こったら・・私は、この殺人犯となってしまったその方の、更生の為に、
全集中する為に、先ず、直ぐに牧師を止めて、その方一人を再生させるために、その方が収監されている
刑務所に、毎日通い始める・・ その結果、教会は無牧となってしまう・・
そういう判断はしないと思います。
・思い悩むかもしれませんが・・結局、「一人を助け出す為に、他の人たちをないがしろにする・・そんな
ことはできない」とか、なんとか言って、そのいなくなった一人を暗黒の世界から助け出す、そういうことに集中することは、やはり、しないという判断をしてゆくのではないか・・そんな風に思います・・。
・なぜ、そういうことをしない、か、と言いますと・・教会は一人の者ではないと考えやすいからです。
 群れ全体を考えなくてはならない・・こういう考えが起こって来ると思うからです。
・しかし・・それでは、何か、主イエスの語られた羊飼いとは随分違ってしまいます。
 心が迷います。
③話が聖書記事から離れますが・・私が中学一年生の時、一生忘れられない出来事がありました。
・その日は運動会でした。 なぜ、その日のことを今でも忘れないでいるのか、といいますと・・、
その日は、生まれて初めて、母が私の運動会を見に来てくれた日だったからです。
・経済的に厳しい家庭でしたから、母はいつも家の中で内職をしていました。
しかし、この日 母は、なぜか、初めて私の運動会に来てくれたのです。とても嬉しかったのです。
・運動会での、お母さんたちは面白いものです・・。どのお母さんたちも、ほとんど同じです。
そこで行なわれている競技を見ているようで、実は、競技そのものは、あまり見ていません。
・では運動会で、お母さんたちは何を見ているのかといいますと・・そうです。 その眼差しの先にはいつも
我が子の姿があるのです。お母さんたちは我が子が、今どうしているのか、そのことだけが気がかりなのです。
・まるでスポットライトを当てているように・・お母さんたちの目は、我が子の様子を追っています。
まるで、世界にその子、一人しかいないかのように見つめているのです。これが、お母さんたちです。
・この日、私は、その母の、私だけを見つめている、そのまなざしの中で、一日過ごしたのでした。
・この日の出来事は、私の心に、愛されている自信、といいましょうか・・愛されているという
ことを信じる力といいましょうか・・そういう、人間にとって最も大事なものが与えられた・・
そういう日であったと、今になってそのことに気づくのです。
〇話を聖書記事に戻しますが・・ここに出てくる羊飼いは、いなくなったその一匹の羊ことだけを考えている
ようです。つまりこの羊飼いはこのいなくなった一匹の羊をかけがえのない一匹として見つめているわけです。
・この羊飼いの姿を通して、主イエス・キリストのおっしゃっておられることは明確です。
神さまは・・この眼差しと同じ眼差しで、私たち一人一人を見ておられる・・。  
・別の言い方をしますと、「神さまは、今、あなたを、まるで、世界に一人しかいないかの様に、
見つめておられる・・」というメッセージです・・。
④しかし、それでも尚、ある方は、こういう意見を捨てきれないかもしれません。
「一匹の羊の為に、99匹を危険にさらす・・これは、正しい判断ではないのではないだろうか・・
この一匹の、羊の愚かさの為に、残りの99匹のこうむる迷惑を考えなくてはいけないと私は思う」
・「たとえいなくなった一匹が、どこかで死んでしまったとしても、それは自己責任ではないだろうか、むしろ、騒ぎの元となったこの一匹の羊の責任を追及しなければならないのではないか」このようなご意見です。   
・このような考え・・それは、私も、正論だと思います。 
・しかし、今、主イエス・キリストは・・正論よりも、もっと、もっと、大切なことを語っておられるのです。
 正しい、という事によっては、罪の世界、滅びに至る世界から、人を救い出すことはできないからです。
・今、主イエスは、人を神さまと断絶状態の罪の世界から、そして、その行き着く先の、死から、救い出して
ゆく、その神の愛について語っておられるわけです。
⑤最後に主イエスは、こういう言葉で、この譬え話を結びます。
 「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない、
九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが、天にあるのです。」
・主イエスは、そういう私たちであるときに、私たちが、帰って来た一匹の羊のようであるときに、
その私たちを、神さまのその喜びは、天に於いて響き渡る、そうおっしゃったのでした。
・私は、この有名な譬え話のこの箇所を読みます度にこう思います。「ここまで、私たち一人一人を見つめて
くださっている・・何という大きな愛なのだろうか・・。」
・そして、思います。「悔い改める必要がある」と言う人は勿論。「そんな必要はない」と思っておられる人たちをも、救いの恵みに招いておられる・・その広さと、深さに驚くのです。
・神さまは、今週も、私たち一人一人を、この愛を持って、見つめておられる。そのことを忘れることなく・・この新しい週も生きぬいてゆきたいと思います・・。
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 ルカの福音書15章1節~7節
①主イエス・キリストの語られた6つの譬え話から、神さまのメッセージを受け取ってゆきたいと思っています。
きょうは、その第一回として、「いなくなった一匹の羊の譬話し」の所をご一緒に読んでゆきたいと思います。
・この譬え話は、当時の人たちのだれでもがよくわかる話でした。
また、現代に生きている私たちにとっても、この話はけして難しいものではありません。
・100匹の羊を飼っていた羊飼いがいて・・、その羊飼いは、ある日、その羊たちを連れて野に出ていったのです。 しかし、しばらくすると、羊飼いは、その中の一匹がいなくなっていることに気づきました。
・こういう場合、その羊飼いはどうするのだろうか・・この譬え話には、こういう問いかけがあります。
・主イエスは、「羊飼いは、残っている羊99匹を野に置いて、いなくなった一匹の羊が見つかる迄、捜し
歩かないだろうか・・そして、見つけたら、大喜びして、その羊を肩に担ぎ、帰って来て、近所の人を集め、
一緒に喜んでくださいと言うのではないだろうか・・」そう語られるのでした。
・ここで、主イエス・キリストは、私たち人間たちを、羊に例えておられます。
このように、神の民を、羊に譬えるというのは、旧約時代からイスラエルの民の伝統でした。
・詩篇には、人を羊に譬えている詩がいくつもあります。皆さんよくご存知の、詩篇の23篇もそうです。
この詩篇は、「主は私の羊飼い」と始まります。 私は一匹の羊、主は、その私の羊飼い・・そう詠われている
有名な詩(うた)です。
・この23篇よりも、今、私たちが注目すべきは、詩篇119:176の所にあるこの御言葉です。
「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。 どうか、あなたのしもべを探してください。」
・当時の人々は、祭りのときなどで、おりにつけ詩篇の言葉を聞かされていました。ですから、この主イエスの
譬え話を聞いた当時の人たちは・・とてもわかりやすかったと思います。
②この譬え話の、その最も大事なメッセージは、4節の所にあります。
・それは、こういう意外性のある問いかけです。
「もし、一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、
いなくなった一匹を見つけるまで、捜し歩かないでしょうか・・」
・皆さんは、この問いかけに対して、どのようにお答えになられるのでしょうか・・
皆さんが、百匹の羊を持っている羊飼であったら、その中の一匹がどこかに居なくなってしまった場合、 
皆さんだったら、どうなさるでしょうか・・。 
・主イエスは、ここで、そういう問いかけを、私たち一人一人にしておられるわけです。
・この4節の言い方は、聞いている者が「はい確かにそうします。」という、そういう肯定的な返事をする
ことを想定した言い方になっているのですが・・しかし、私たちは、はたして本当に、そういう肯定的な
返事をする一人一人なのでしょうか・・
・また、主イエスは、5節6節で、このように言われます。→ 「もしその一匹が見つかったら、
 友達や近所の人たちを呼び集め、一緒に喜んでください。と言うでしょう・・。」
・この問いかけも、「はいそうします。」という返事が帰って来ることを想定した言い方になっているのですが、
私たちは、はたして、そういう判断をする一人一人なのでしょうか・・。
・皆さんの、心の中の、そのお返事が、どういうものか・・それはわかりませんけれども・・
・私でしたらこのように答えてしまう、と思います。 
「いいえ、私は、やっぱり、探しには行かないと思います。」
「また万が一、この羊がひょっこり返って来たとしても、そんな、大喜びして宴会などをひらく、
そのようなことはしないと思います。」
・現代の日本で、羊を飼うという仕事についておられる方は、極めて稀ですから、この譬え話を現代風に変えて考えてみようと思います。 
・教会生活ならば似たような出来事が考えられます。
例えば・・この私が、皆さんの教会の主任牧師をしているとして・・皆さんの中のお一人が・・殺人事件を
起こし、刑務所に収監されてしまった、とします。
・そうのようなことが起こったら・・私は、この殺人犯となってしまったその方の、更生の為に、
全集中する為に、先ず、直ぐに牧師を止めて、その方一人を再生させるために、その方が収監されている
刑務所に、毎日通い始める・・ その結果、教会は無牧となってしまう・・
そういう判断はしないと思います。
・思い悩むかもしれませんが・・結局、「一人を助け出す為に、他の人たちをないがしろにする・・そんな
ことはできない」とか、なんとか言って、そのいなくなった一人を暗黒の世界から助け出す、そういうことに集中することは、やはり、しないという判断をしてゆくのではないか・・そんな風に思います・・。
・なぜ、そういうことをしない、か、と言いますと・・教会は一人の者ではないと考えやすいからです。
 群れ全体を考えなくてはならない・・こういう考えが起こって来ると思うからです。
・しかし・・それでは、何か、主イエスの語られた羊飼いとは随分違ってしまいます。
 心が迷います。
③話が聖書記事から離れますが・・私が中学一年生の時、一生忘れられない出来事がありました。
・その日は運動会でした。 なぜ、その日のことを今でも忘れないでいるのか、といいますと・・、
その日は、生まれて初めて、母が私の運動会を見に来てくれた日だったからです。
・経済的に厳しい家庭でしたから、母はいつも家の中で内職をしていました。
しかし、この日 母は、なぜか、初めて私の運動会に来てくれたのです。とても嬉しかったのです。
・運動会での、お母さんたちは面白いものです・・。どのお母さんたちも、ほとんど同じです。
そこで行なわれている競技を見ているようで、実は、競技そのものは、あまり見ていません。
・では運動会で、お母さんたちは何を見ているのかといいますと・・そうです。 その眼差しの先にはいつも
我が子の姿があるのです。お母さんたちは我が子が、今どうしているのか、そのことだけが気がかりなのです。
・まるでスポットライトを当てているように・・お母さんたちの目は、我が子の様子を追っています。
まるで、世界にその子、一人しかいないかのように見つめているのです。これが、お母さんたちです。
・この日、私は、その母の、私だけを見つめている、そのまなざしの中で、一日過ごしたのでした。
・この日の出来事は、私の心に、愛されている自信、といいましょうか・・愛されているという
ことを信じる力といいましょうか・・そういう、人間にとって最も大事なものが与えられた・・
そういう日であったと、今になってそのことに気づくのです。
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ようです。つまりこの羊飼いはこのいなくなった一匹の羊をかけがえのない一匹として見つめているわけです。
・この羊飼いの姿を通して、主イエス・キリストのおっしゃっておられることは明確です。
神さまは・・この眼差しと同じ眼差しで、私たち一人一人を見ておられる・・。  
・別の言い方をしますと、「神さまは、今、あなたを、まるで、世界に一人しかいないかの様に、
見つめておられる・・」というメッセージです・・。
④しかし、それでも尚、ある方は、こういう意見を捨てきれないかもしれません。
「一匹の羊の為に、99匹を危険にさらす・・これは、正しい判断ではないのではないだろうか・・
この一匹の、羊の愚かさの為に、残りの99匹のこうむる迷惑を考えなくてはいけないと私は思う」
・「たとえいなくなった一匹が、どこかで死んでしまったとしても、それは自己責任ではないだろうか、むしろ、騒ぎの元となったこの一匹の羊の責任を追及しなければならないのではないか」このようなご意見です。   
・このような考え・・それは、私も、正論だと思います。 
・しかし、今、主イエス・キリストは・・正論よりも、もっと、もっと、大切なことを語っておられるのです。
 正しい、という事によっては、罪の世界、滅びに至る世界から、人を救い出すことはできないからです。
・今、主イエスは、人を神さまと断絶状態の罪の世界から、そして、その行き着く先の、死から、救い出して
ゆく、その神の愛について語っておられるわけです。
⑤最後に主イエスは、こういう言葉で、この譬え話を結びます。
 「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない、
九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが、天にあるのです。」
・主イエスは、そういう私たちであるときに、私たちが、帰って来た一匹の羊のようであるときに、
その私たちを、神さまのその喜びは、天に於いて響き渡る、そうおっしゃったのでした。
・私は、この有名な譬え話のこの箇所を読みます度にこう思います。「ここまで、私たち一人一人を見つめて
くださっている・・何という大きな愛なのだろうか・・。」
・そして、思います。「悔い改める必要がある」と言う人は勿論。「そんな必要はない」と思っておられる人たちをも、救いの恵みに招いておられる・・その広さと、深さに驚くのです。
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