信仰がなくては、神に喜ばれることはできません

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今回は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(へブル11:6)からの2回目のメッセージです。既に、11章全体は信仰にテーマを置いていますが、目標を目指して、忍耐を持って生きるようにとの勧めの文脈の中で書かれていることを指摘しました。10章19節から始まるいくつかの勧めのなかで、その模範となる方々を旧約聖書から選んで、私たちを励まそうとしているのです。私たちもこれらの信仰の偉人にならって、試練や困難な中でも、神の言葉を握りながら、ゴールを見失わない生き方を目指して行きたいと思っています。今回は、旧約聖書の中でも信仰の父と呼ばれるアブラハムを取り上げてみます。それでは、へブル11章6-19節を読んでみてください。
11章6節には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と書かれています。この6節の聖句から、神に喜ばれる信仰があることが教えられます。第一に、神がおられることを信じる信仰です。困難や試練の中でも、私たちは、神の守りの中にいます。そう、神は私たちの困難の直中におられるのです。第二に、神を求める者には報いてくださる、そのことを信じる信仰です。これらのことを、アブラハムの信仰から学んで行きたいと願っています。ヘブルの作者は特別に4回に渡り、信仰によってと、アブラハムの信仰の歩みを取り上げています。
第一に、8節には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受けとるべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出ていきました。」と書かれています。創世記12章1-4節を開けてみてください。1節には、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地に行きなさい。」と、神のアブラハムへの語りかけが書かれています。アブラハムは、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」(2節)との神の言葉を信じて、バビロンの南東約240キロ離れたウル(シュメールの主要な都市)からカナン(今のイスラエル)の地を目指して出発します。これは、偶像崇拝の町から離れて、真の神を信じて生きようとする信仰の決断でもあります。「地上のすべて民族は、あなたによって祝福される。」との3節の約束は、後にキリストによって成就することになります。この時点で、アブラハムは、神を信じ、神の言われることを信じて歩み始めたのです。そして、信仰者を神は報いてくださる方であると信じたのです。しかし、カナンについてもききんが彼らを襲い、アブラハムの家族はエジプトに逃れることになります。エジプト人を恐れ、自分の妻であったサライに私の妹であると言ってくれるようにお願いします。実際には、異母兄弟であったので、噓ではないのですが、妻であると言えない未熟な信仰者であったようです。創世記12章の後半部分に、そのことが書かれています。この時点では、アブラハムはまだ信仰者としての成長の過程にあったようです。そのような、アブラハムを神は守ってくださいます。神はパロの家をお裁きになり、アブラハムの家族は、奇跡的に助け出されることになります。アブラハムの意味は、多くの国民の父であり、この時点で彼は、アブラム(高貴なる父)との意味を持つ名で呼ばれています。信仰の成長と共に名前も変わって行きます。
ヘブル11章9節には、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」と書かれています。その理由として、この世の都を待ち望んだのではなく、天の都、すなわち神が与えてくださる永遠の都を待ち望んでいたからであると説明されています。私たちも財産を天国に持っていくことはできません。この地上での歩みは一時的であり、天国への備えをするところであることを忘れてはいけないと思っています。ピリピ3章20節には、「私たちの国籍は天にあります。」と書かれています。
11章11節には、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」と書かれています。ここでは、アブラハムの妻であるサラの信仰が取り上げられているように思いますが、全体の文脈からアブラハムの信仰として、理解することもできます。事実、2017年訳聖書は、アブラハムの信仰として訳しています。サラもアブラハムも、主の使いがサラに子供が与えられると語りかけられた時、100歳近いアブラハムも90歳近いサラも笑ったと記録されています。創世記18章、また21章を読んでみてください。神の言葉を信じられないで嘲笑ったその笑いを神は喜びの笑いに変えてくださいます。微笑ましい物語が書かれています。信仰の子として生まれるイサクとは、「彼は笑う」との意味です。
11章17節には、「信仰によって、アブラハムは試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」と書かれています。これは、言葉に表すことができないほどの厳しい試練であったと思われます。自分の子、それも信仰の約束の子をいけにえとしてささげるようにとの神の言葉がアブラハムに臨むのです。創世記22章を開けてみてください。イサクを連れてモリヤの地に行き、全焼のいけにえとして、イサクをささげるようにとの神の言葉を受け取ります。結論から申し上げますと、その言葉に従ってイサクを殺そうとするアブラハムを神はお止めになり、代わりに一頭のお羊を神は用意しておられます。その結果この場所を、アブラハムはアドナイ・イルエと呼ぶことになります。その意味は、主は備えてくださるとの意です。この信仰の試練を通してアブラハムは信仰の父と呼ばれることになります。当時のモリヤの地は後にエルサレムの地であり、そこに神殿が立つことになることも神の奇跡の業であると思います。そして、このエルサレムの地でキリストが十字架に着き、人類の罪の贖いをなすことになる、これも神の尊いご計画であると思います。このように4回も、信仰によってとの表現を使ってアブラハムの体験をヘブルの作者は引用してまいります。へブル11章16節にあるように、私たちも、信仰の試練に打ち勝って、天の故郷を目指す人生を全うして行きたいと願っています。
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