「荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」(イザヤ32:15)
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今回は、旧約聖書のイザヤ書から7回目のメッセージです。前回からはイザヤ書の第三部に入りました。それは、24‐35章にあたりますが、世界の裁きと、神の国の成立に関する預言が書かれています。イエスがもう一度戻って来られ、世界を裁き、悪を滅ぼし、シオンの山に立たれ、神の国がこの世に実現する。そのようにイザヤはこれらの箇所で預言しています。イエスはもう一度戻って来られます。そして、すべての民族、国々に、また、私たち一人一人に正しい裁きをなされます。前回語ったことを簡単に振り返ってみます。その日再臨のイエスは、特に弱い者、貧しい者のとりでとなられるのです(25:4)。さらに、イエスは、私たちのために最良の祝宴を開いてくださいます(25:6)。罪ゆえに苦しんでいた人たちの悲しみのおおいを取り去ってくださいます(7)。そして、死の恐れから私たちを解放してくださいます(8)。その方こそ、私たちが待ち望んでいる主であり、主イエス・キリストです。その御救いを楽しみ喜ぼう。そのような内容を前回語りました。今回は、32章を選びました。イエスが戻ってこられ、イスラエルを裁き、新しい世界を造ってくださる。そのような約束が書かれています。その日を待ち望む信仰者でありたいと願っています。それでは、32章を読んでみてください。
32章1節には、「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」と書かれています。ひとりの王とは、救い主のことであり、イエスのことであると理解できます。イザヤはメシアが来られることを何度も預言しています。7章14節、9章6-7節、11章1-5節などを振り返って見てください。インマヌエルと呼ばれる方が、平和の君として、ダビデの王座についてその王国を治める。そのようにメシアの理解を深めています。このメシアが終末の時、戻ってこられ、世界を正義によって治めるのです。それだけではなく、首長たちは公義によってつかさどると続いています。新約聖書の中から第一ペテロ2章9節を開けてみます。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と書かれています。イエスは私たちを用いてくださり、イエスと共にこの世を治める者と変えてくださるのです。私たちを光の中にイエスが招いてくださいました。さらに、私たちは信仰によって義とされ、聖なる国民とされた者たちです。祈りを通して、祭司として、友人や家族のために祈ることができます。首長たちは公義によってつかさどるとありますが、首長たちとは、メシアと共に神の国を治める者たちのことです。32章2節では、イエスと共に信仰者たちが、多くの民のためにシェルターを提供し、安全を提供している様子が描かれています。3節では、見る者、聞く者との表現で、多くの民がみことばに心を開いて行く様子が表現されています。4節では、私たちの能力は限られていても、私たち信仰者が神の霊的な知識をはっきりと明白に語ることができるようになることが示されています。5‐8節では、愚か者と高貴な人が明らかにされていくとあります。5節のしれ者とは、神を恐れない愚か者のことで、へブル語ではナバルと呼びます。第一サムエル記25章25節からはこの愚か者と呼ばれた人名のナバルが登場します。時間があれば読んでみてください。
9―14節には、エルサレムの滅亡に気づき、悲しむようにとのメッセージが書かれています。その内容は悔い改めのメッセージになっており、その対象は女や娘に向かって書かれています。9節には、のんきな女たち、うぬぼれている娘たち。私の声を聞け。とあります。詩篇123篇4節には、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、とありますが、この安逸とのんきとは同じヘブル語がつかわれています。それは、何もせず、ぶらぶらと遊び暮らすことであるようです。そのような者には、エルサレムが神の裁きに会うことなど理解できないのかもしれません。罪をおかし、神に立ち返ることを忘れてしまった民や指導者がいるのです。アッシリヤから攻撃されるのなら、エジプトに助けを求めればいい、そのような一時的な考えしか持てない、それがイスラエルの指導者や民の思いであったようです。参照イザヤ31:1-3。イザヤははっきりと預言します。14節で、「なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェル(丘の意)と見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。」と。そう、エルサレムも滅亡の時が近づいているのです。歴史を振り返ると、エルサレムは586BCにバビロンによって、70ADにローマによって滅ぼされていきます。
さて、15-20節には、裁きの後にくる回復の預言が書かれています。今日のテーマですが、15節には、「しかし、ついには、上からの霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」と書かれています。回復の預言は、神の霊(ルーアハ)によって、新たな創造の業として起こってくるのです。一度滅ぼされてしまったエルサレム、そうであったとしても、神の霊によって新たな都が創造されて行くのです。詩篇33篇6節には、「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、神のいぶきによって。」と書かれています。このいぶきも霊も同じ言葉です。神の霊が私たちに注がれて、新しい創造がなされるのです。新約聖書に登場するイエスの弟子たちも同じです。聖霊を受けて人生が変えられ、神の業をなして行ったのです。イザヤは神の霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園になると預言します。皆さん想像してください。聖霊を受けた私たちは、イエスと一緒に実りある人生を始めるのです。実りある人生、それはちょうど収穫物で満ちた果樹園のようです。イエスと共にある人生には、祝福が伴うのです。イエスが与えてくださる義があり、義は平和をつくり出します(17)。平和、安全、安らかないこいの場が神によって与えられてまいります。それは、終末の時、イエスが戻って来られる時に実現するのです。
さあ、聖霊が注がれ、私たちは荒野を果樹園に変えていく、そのような信仰を持っていこうではありませんか。イエスの助けによって、荒野を果樹園に変えることができるのです。そのような信仰者にならせていただきたいと願っています。
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32章1節には、「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」と書かれています。ひとりの王とは、救い主のことであり、イエスのことであると理解できます。イザヤはメシアが来られることを何度も預言しています。7章14節、9章6-7節、11章1-5節などを振り返って見てください。インマヌエルと呼ばれる方が、平和の君として、ダビデの王座についてその王国を治める。そのようにメシアの理解を深めています。このメシアが終末の時、戻ってこられ、世界を正義によって治めるのです。それだけではなく、首長たちは公義によってつかさどると続いています。新約聖書の中から第一ペテロ2章9節を開けてみます。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と書かれています。イエスは私たちを用いてくださり、イエスと共にこの世を治める者と変えてくださるのです。私たちを光の中にイエスが招いてくださいました。さらに、私たちは信仰によって義とされ、聖なる国民とされた者たちです。祈りを通して、祭司として、友人や家族のために祈ることができます。首長たちは公義によってつかさどるとありますが、首長たちとは、メシアと共に神の国を治める者たちのことです。32章2節では、イエスと共に信仰者たちが、多くの民のためにシェルターを提供し、安全を提供している様子が描かれています。3節では、見る者、聞く者との表現で、多くの民がみことばに心を開いて行く様子が表現されています。4節では、私たちの能力は限られていても、私たち信仰者が神の霊的な知識をはっきりと明白に語ることができるようになることが示されています。5‐8節では、愚か者と高貴な人が明らかにされていくとあります。5節のしれ者とは、神を恐れない愚か者のことで、へブル語ではナバルと呼びます。第一サムエル記25章25節からはこの愚か者と呼ばれた人名のナバルが登場します。時間があれば読んでみてください。
9―14節には、エルサレムの滅亡に気づき、悲しむようにとのメッセージが書かれています。その内容は悔い改めのメッセージになっており、その対象は女や娘に向かって書かれています。9節には、のんきな女たち、うぬぼれている娘たち。私の声を聞け。とあります。詩篇123篇4節には、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、とありますが、この安逸とのんきとは同じヘブル語がつかわれています。それは、何もせず、ぶらぶらと遊び暮らすことであるようです。そのような者には、エルサレムが神の裁きに会うことなど理解できないのかもしれません。罪をおかし、神に立ち返ることを忘れてしまった民や指導者がいるのです。アッシリヤから攻撃されるのなら、エジプトに助けを求めればいい、そのような一時的な考えしか持てない、それがイスラエルの指導者や民の思いであったようです。参照イザヤ31:1-3。イザヤははっきりと預言します。14節で、「なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェル(丘の意)と見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。」と。そう、エルサレムも滅亡の時が近づいているのです。歴史を振り返ると、エルサレムは586BCにバビロンによって、70ADにローマによって滅ぼされていきます。
さて、15-20節には、裁きの後にくる回復の預言が書かれています。今日のテーマですが、15節には、「しかし、ついには、上からの霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」と書かれています。回復の預言は、神の霊(ルーアハ)によって、新たな創造の業として起こってくるのです。一度滅ぼされてしまったエルサレム、そうであったとしても、神の霊によって新たな都が創造されて行くのです。詩篇33篇6節には、「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、神のいぶきによって。」と書かれています。このいぶきも霊も同じ言葉です。神の霊が私たちに注がれて、新しい創造がなされるのです。新約聖書に登場するイエスの弟子たちも同じです。聖霊を受けて人生が変えられ、神の業をなして行ったのです。イザヤは神の霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園になると預言します。皆さん想像してください。聖霊を受けた私たちは、イエスと一緒に実りある人生を始めるのです。実りある人生、それはちょうど収穫物で満ちた果樹園のようです。イエスと共にある人生には、祝福が伴うのです。イエスが与えてくださる義があり、義は平和をつくり出します(17)。平和、安全、安らかないこいの場が神によって与えられてまいります。それは、終末の時、イエスが戻って来られる時に実現するのです。
さあ、聖霊が注がれ、私たちは荒野を果樹園に変えていく、そのような信仰を持っていこうではありませんか。イエスの助けによって、荒野を果樹園に変えることができるのです。そのような信仰者にならせていただきたいと願っています。
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