【海軍省 練習兵用 歴史教科書】17. 後醍醐天皇と船上山の戦い

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5.建武中興と勤皇精神 (1)中興(ちゅうこう)の聖業(せいぎょう) 武家政治と皇政復古 源頼朝の鎌倉幕府開設以来の武家政治は、平安末期の社会の混乱を武力をもって鎮め、國内に新たな秩序を齎(もたら)して民心を安定せしめるのに多大の功があった。 しかし武家政治そのものは、我が國體の本義に鑑みて、あくまで許すことのできない政治組織である。 されば朝廷におかせられては、しばしば皇政復古の御計画をお立てになったが機 未だ熟せず、殊に承久の変の如き後鳥羽・順徳の二上皇が、時の執権北条義時の手によりそれぞれ遠島に遷され給ふ御悲運を招いたことは、誠に畏(かしこ)き極みであった。 北條氏の専横(せんおう) しかも變後北上氏はますます権勢を擅(ほしいまま)にして豪も改める色なく、殊に元寇の後、幕府の財政は著しく困難となったにもかかはらず、執権北條高時(たかとき)は遊楽をこととして政治を顧みなかったので、人心は次第に北條氏を離れて行った。 討幕の御計畫(けいかく) 時に第96代後醍醐天皇は、かねて皇政復古を実現して延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の聖代に復し、肇国精神に基づいて政治の刷新を図ろうとの御志を懐(いただ)かせ給うていたが、北條氏の専横がいよいよ募るに及び、遂に北條氏討伐の御計畫をお立てになった。 勤皇軍の興起 高時は大いに驚き、元弘(げんこう)元年(皇紀1991)、大兵を京都に向かはせ、翌2年(皇紀1992)、畏れ多くも天皇を隠岐(おき)に遷し奉ったが、この時、既に楠木正成は詔(みことのり)を奉じて兵を河内に挙げ、金剛山の千早城(ちはやじょう)に寡兵(かへい)よく賊の大軍を苦しめて大義を天下に唱え、護良(もりなが)親王もまた吉野に據(よ)って諸国に義兵を募られたから、肥後の菊池武時をはじめ勤皇の諸侯が各地に続々と義軍を起こした。 ここにおいて元弘3年(皇紀1993)、天皇は名和長年(なわながとし)に迎へられ給うて、隠岐(おき)から伯耆(ほうき)船上山(せんじょうさん)に行幸あらせられた。 北條氏の滅亡 北條高時は驚いて足利高氏(あしかがたかうじ)を遣わし、船上山(せんじょうざん)を攻めさせたが、高氏(たかうじ)は俄(にわか)に官軍に降(ふ)って京都を攻めこれを回復した。 この時、新田義貞(にったよしさだ)もまた義兵を起こし、進んで鎌倉に攻め入ったため、高時は一族とともに自害し、北條氏はここに滅んだ。 ここに於いて後醍醐天皇は京都に還幸あらせられ、直ちに新政の樹立に着手し給うたのである。 建武中興の大業 即ち天皇は先ず摂関政治(せっかんせいじ)を廃して我が國體(こくたい)本来の姿たる天皇親政の實を擧(あ)げ給ひ、中央の政治機関を整備してこれに公卿(くぎょう)・武士の人材を當(あ)て、別に護良(もりよし)親王を征夷大将軍に任じて軍事を統べし給うた。 また地方には尊氏(たかうじ)・義貞・正成・長年(ながとし)以下の有功の公卿・武士を守護・國司(こくし)に任じて行政に當らせ、特に北畠顕家(きたはたけあきいえ)には皇子義良親王(のりながしんのう)を奉じて陸奥を治めさせ、足利直義(あしかがただよし)に皇子成良親王(なりながしんのう)を奉じて関東を治めしめ給うた。 かくて従来の政治上の幾多の弊害が除かれ、萬機親裁の統一政治に復帰して、肇国精神(ちょうこくせいしん)に基づく国政改革の實(じつ)が挙(あが)るに及び、年号を改めて建武(けんむ)と称せられた。さればこの大業を建武中興と申し上げる。 中興の御親政 ご在位の間、内には三綱五當の儀を正しくして、外には萬機百司の政怠り給はず、延喜天暦(えんぎてんりゃく)の跡を追はれしかば、四海風を望みて悦び、萬民徳に帰して楽しむ。(中略)誠に天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君なりと、その徳を称し、その化に誇らぬ者は無かりけり。(「太平記」) 古興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとして、新たなる勅裁漸々(ようよう)聞こえけり。(「梅松論(ばいしょうろん)」)
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