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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】18. 七生報国と憂国勤皇

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(2)忠臣の遺烈

建武中興の挫折

かくて新政はその緒につくこととなったが、ともに並んで國政を翼賛し奉るべき公卿と武士の間がとかく圓満(えんまん)を缺(か)いたことは、世情に暗い公卿の多かったこととともに甚だしく政務を渋滞せしめた。

そのうえ、國民の中には恩賞に対して不平を唱へるものが極めて多く、就中(なかんずく)久しく武家政治になれた地方武士の中には、幕府の再興を願ふものさへ生じた。

要するに國民の中には、いまだ我が國体を解せず、大義に暗いものが多く、これを巧みに利用した尊氏(たかうじ)の謀反によって、遂に中興の大業は惜しくも挫折することを余儀なくさせられたのである。

尊氏の謀反と正成(まさしげ)の戦死

即ち足利尊氏は源氏の一族であったためにかねて幕府再興の野心を抱いていたが、まだ新政の基礎が確立しない時機に乗じ、私恩を施して巧みに不平武士をてなづけ、早くも建武二年(皇紀1995年)、鎌倉に於いて叛旗(はんき)を飜(ひるがえ)した。

天皇は勤王の諸将に命じて直ちにこれを討たしめられ、陸奥から義良(のりなが)親王を奉じて西上した北畠顯家(きたはたけあきいえ)の奮戦によって、一度は尊氏(たかうじ)を大いに破りこれを九州に走らしめたが、やがて九州に於いて勢力を恢復した尊氏は直義とともに大軍を率ゐ、海陸相並んで東上して来た。

正成(まさしげ)は義貞とともにこれを兵庫に防いだが、戦利あらず、義貞は敗れて京都に退き、正成(まさしげ)は力戦奮闘の後、七生報國を期して弟正季(まさすえ)とともに湊川(みなとがわ)に自刃(じじん)した。

時に延元(えんげん)元年(皇紀1996)5月25日のことであった。

吉野御還幸

ここに於て尊氏は京都に攻め入り、その後、長年(ながとし/名和長年)も戦死して官軍の勢は漸く振はず、天皇は畏(かしこ)くも遂に吉野に還幸あらせられることとなった。

かくて朝廷は後醍醐天皇から第97代後村山(こむらかみ)天皇・第98代長慶(ちょうけい)天皇、第99代後龜山(ごかめやま)天皇御四代の間は多く吉野に在(おは)しまして、天皇御親政を期して足利氏討伐を図り給ひ、ここに崇高な我が國體發揚(こくたいはつよう)の輝かしい御事蹟と御苦難に満ちた吉野時代五十余餘年の歴史が、我が國史の上に燦(さん)として輝くこととなったのである。

忠臣の遺烈

この間、後醍醐天皇の緒皇子はよく中興の聖旨を體(たい)し給ひ、貴い御身を以て義戦に挺身遊ばされた。

また幾多の勤王の諸将は中興の大業のためによくその忠誠を捧げ奉り、しかもその多くは子孫相傳へてその遺志を継ぎ、いかなる苦境に陥るとも毫(ごう)も節義を變(へん)ぜず、皇事に殉(じゅん)じた。

この時、北畠親房(きたはたけちかふさ)が常陸(ひたち)にあって陣中に執筆した神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、國體の本義を説いて憂國の文字に満ちた、正に勤皇精神の結晶であった。

而(しか)して これらの勤皇諸将(きんのうしょしょう)の忠勇義烈の精神と事蹟は、後人をして奮起せしめねばやまない感銘を残し、就中江戸幕末に至っては勤皇の志士を鼓舞して、明治維新の大業を促進し奉る有力な因由(いんゆう)となった。

御龜山(ごかめやま)天皇の京都還幸

足利氏は尊氏の死後義詮(よしあきら)を経て義満(よしみつ)の代となったが、元中9年(皇紀2052)、義満は後亀山天皇に京都還幸のことを請い奉った。

天皇は多年に亙(わた)る戦乱のための國民の苦しみを憐(あはれ)み給ひ、その奏請(そうせい)を許して京都に還幸あらせられ、神器(じんき)を第百代 後小松(ここまつ)天皇に傳え給うた。

かくて多年の戦乱は静まったが、遂に幕府政治の再興を見ることとなった。

七生報国(しちしょうほうこく)の盡忠

正成(まさして) 座上に居つつ舎弟の正季(まさすえ)に向ひて、抑最後の一念に依りて、善悪の生を引くといへり、九界(きゅうかい)の間に何か御邊(ごへん)の願なると問ひければ、正季(まさすえ)からからと打笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業(ざいごう)深き悪念なれども、我も箇様に思ふなり、いざさらば同じく生を替へて此の本懐を達せんと契(ちぎ)りて、兄弟ともに刺し違へて、同じ枕に臥しにけり。(「太平記」)

憂国勤皇の文字

天地も昔にかはらず、日月も光を改めず。況(いわん)や三種の神器世に現存し給へり。極(きま)り有るべからざるは我が國を傳ふる寶祚(ほうそ)也。仰ぎて貴び奉るべきは日嗣(ひつぎ)を受け給ふすべらぎになんおはします。

凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人臣の道なり。必ずこれを高名と思ふべきにあらず。 (北畠親房「神皇正統記」きたはたけちかふさ「じんのうしょうとうき」 )

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建武中興の挫折

かくて新政はその緒につくこととなったが、ともに並んで國政を翼賛し奉るべき公卿と武士の間がとかく圓満(えんまん)を缺(か)いたことは、世情に暗い公卿の多かったこととともに甚だしく政務を渋滞せしめた。

そのうえ、國民の中には恩賞に対して不平を唱へるものが極めて多く、就中(なかんずく)久しく武家政治になれた地方武士の中には、幕府の再興を願ふものさへ生じた。

要するに國民の中には、いまだ我が國体を解せず、大義に暗いものが多く、これを巧みに利用した尊氏(たかうじ)の謀反によって、遂に中興の大業は惜しくも挫折することを余儀なくさせられたのである。

尊氏の謀反と正成(まさしげ)の戦死

即ち足利尊氏は源氏の一族であったためにかねて幕府再興の野心を抱いていたが、まだ新政の基礎が確立しない時機に乗じ、私恩を施して巧みに不平武士をてなづけ、早くも建武二年(皇紀1995年)、鎌倉に於いて叛旗(はんき)を飜(ひるがえ)した。

天皇は勤王の諸将に命じて直ちにこれを討たしめられ、陸奥から義良(のりなが)親王を奉じて西上した北畠顯家(きたはたけあきいえ)の奮戦によって、一度は尊氏(たかうじ)を大いに破りこれを九州に走らしめたが、やがて九州に於いて勢力を恢復した尊氏は直義とともに大軍を率ゐ、海陸相並んで東上して来た。

正成(まさしげ)は義貞とともにこれを兵庫に防いだが、戦利あらず、義貞は敗れて京都に退き、正成(まさしげ)は力戦奮闘の後、七生報國を期して弟正季(まさすえ)とともに湊川(みなとがわ)に自刃(じじん)した。

時に延元(えんげん)元年(皇紀1996)5月25日のことであった。

吉野御還幸

ここに於て尊氏は京都に攻め入り、その後、長年(ながとし/名和長年)も戦死して官軍の勢は漸く振はず、天皇は畏(かしこ)くも遂に吉野に還幸あらせられることとなった。

かくて朝廷は後醍醐天皇から第97代後村山(こむらかみ)天皇・第98代長慶(ちょうけい)天皇、第99代後龜山(ごかめやま)天皇御四代の間は多く吉野に在(おは)しまして、天皇御親政を期して足利氏討伐を図り給ひ、ここに崇高な我が國體發揚(こくたいはつよう)の輝かしい御事蹟と御苦難に満ちた吉野時代五十余餘年の歴史が、我が國史の上に燦(さん)として輝くこととなったのである。

忠臣の遺烈

この間、後醍醐天皇の緒皇子はよく中興の聖旨を體(たい)し給ひ、貴い御身を以て義戦に挺身遊ばされた。

また幾多の勤王の諸将は中興の大業のためによくその忠誠を捧げ奉り、しかもその多くは子孫相傳へてその遺志を継ぎ、いかなる苦境に陥るとも毫(ごう)も節義を變(へん)ぜず、皇事に殉(じゅん)じた。

この時、北畠親房(きたはたけちかふさ)が常陸(ひたち)にあって陣中に執筆した神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、國體の本義を説いて憂國の文字に満ちた、正に勤皇精神の結晶であった。

而(しか)して これらの勤皇諸将(きんのうしょしょう)の忠勇義烈の精神と事蹟は、後人をして奮起せしめねばやまない感銘を残し、就中江戸幕末に至っては勤皇の志士を鼓舞して、明治維新の大業を促進し奉る有力な因由(いんゆう)となった。

御龜山(ごかめやま)天皇の京都還幸

足利氏は尊氏の死後義詮(よしあきら)を経て義満(よしみつ)の代となったが、元中9年(皇紀2052)、義満は後亀山天皇に京都還幸のことを請い奉った。

天皇は多年に亙(わた)る戦乱のための國民の苦しみを憐(あはれ)み給ひ、その奏請(そうせい)を許して京都に還幸あらせられ、神器(じんき)を第百代 後小松(ここまつ)天皇に傳え給うた。

かくて多年の戦乱は静まったが、遂に幕府政治の再興を見ることとなった。

七生報国(しちしょうほうこく)の盡忠

正成(まさして) 座上に居つつ舎弟の正季(まさすえ)に向ひて、抑最後の一念に依りて、善悪の生を引くといへり、九界(きゅうかい)の間に何か御邊(ごへん)の願なると問ひければ、正季(まさすえ)からからと打笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業(ざいごう)深き悪念なれども、我も箇様に思ふなり、いざさらば同じく生を替へて此の本懐を達せんと契(ちぎ)りて、兄弟ともに刺し違へて、同じ枕に臥しにけり。(「太平記」)

憂国勤皇の文字

天地も昔にかはらず、日月も光を改めず。況(いわん)や三種の神器世に現存し給へり。極(きま)り有るべからざるは我が國を傳ふる寶祚(ほうそ)也。仰ぎて貴び奉るべきは日嗣(ひつぎ)を受け給ふすべらぎになんおはします。

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