【海軍省 練習兵用 歴史教科書】27.安政の大獄

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(2)幕府政治の破綻 一大危機の現出 江戸幕府開設以来既に二百四十餘年を経て幕府の勢力も漸く衰へ、外には欧米諸国の来寇がいよいよ急を告げ、内には開港・鎖国の議論が天下に沸騰してここに我が國の一大危機が現出した時、畏くもこの難局に立たせ給うたのは第121代孝明(こうめい)天皇であらせられる。 孝明天皇の御聖徳 天皇は極めて英明剛毅(えいめいごうき)にわたらせられ、この難局打開のため日夜宸襟(しんきん)を悩まし給うたが、遂に勅を幕府に下してますます国防を厳にし、重大なる政務は必ず勅裁を仰がしめられた。 ここに早くも朝威更張(こうちょう)の気運が現れたのである。 しかも時局の進運に伴ってますます国家危急の度が加はるに及び、天皇はしばしば内治外交に関する幕府の措置を督励(とくれい)遊ばされ、時局の打開をお図りになった。 尊皇攘夷思想の勃興 かくて国家の一大危機に際して、天皇の廣大無邊(広大無辺 こうだいむへん)の御聖徳を拝し、国民の国家的自覚はいよいよ高まり勤皇の思想はますます旺盛となり、国民はみな我が國の本然の姿に顧みて、皇室を奉じ挙国一致して外寇に当らうとし、尊皇攘夷の国民精神は大いに昂揚することとなったのである。 ペリーの来朝 当時アメリカに於いては北太平洋における捕鯨事業が盛となったため、米船の覇水・食料を求めて我が港湾を窺うものが頻にましたが、遂に嘉永6年(2512)6月、アメリカ水師提督ペリーは軍艦を率ゐて浦賀に来航し、強硬に和親(わしん)通商を要求した。 幕府は狼狽してその処置に迷ひ、先づ回答を翌年に延期するとともにこれを朝廷に奏上(そうじょう)し、また諸侯に意見を求めたが、このことは幕府の威信を大いに失墜せしめるとともに、国内に議論が沸騰しはじめる端緒が開かれた。 和親条約の締結 ところがその翌年にはロシヤの使節プチャーチンが同じく軍艦を率いて長崎に来航し、修好と千島・樺太の境界決定とを求め、更に安政元年(2514)正月にはペリーが約によってふたたび来朝し、神奈川沖に於いて確答を求めたので、幕府は遂に鎖国政策を捨ててアメリカと和親条約を結び、下田・函館の二港を開き、薪水・食料の支給及び漂流民の相互救助を約した。 これを神奈川条約といふ。 ついで英・露・蘭の三国ともほぼ同様の条約を結び、ロシヤとの国境協定は千島を分有、樺太を共有と定めた。 通商条約の締結 かくて和親条約の規約に基づき、やがてアメリカ総領事ハリスが来朝して幕府に通商条約を求めたので、幕府も漸く開国の方針に傾いて安政4年(2517)、アメリカとの間に通商条約を議定し、その調印に先立ち老中 堀田正睦(ほったまさよし)を上京せしめて勅許を仰がせたが、朝議は開国を非とし、諸藩の間にも攘夷の気勢が強く、勅許を得ることは困難であった。 進退に窮した幕府は井伊直弼(いいなおすけ)を大老にあげてこの難局に当たらしめたが、時に英佛二国は清と戦って大勝し、余威を以て我が国に通商を迫るという風説があり、ハリスはこの形勢を利用して幕府に条約の調印を迫ったので、直弼は遂に勅許を待たずに条約を調印し、次いで蘭・露・英・沸などの諸国ともほぼ同様の条約を結んだ。 これを安政の假(かり)条約といふ。 世論の沸騰 然るに条約の内容は関税に自主権なく、治外法権を許した頗(すこぶ)る不利なものであり、しかも直弼がこのやうな不利な条約を勅許を待たずに結んだことは大いに世論を沸騰せしめ、朝廷は幕府の専断を憤(いきどほ)らせ給ひ、諸侯もまた幕府の処置を責めてここに尊皇攘夷の矛先はひとしく直弼の専断に集中した。 安政の大獄 ここに於いて直弼は幕府の政治を非難する公卿・諸侯・藩士及び吉田松陰橋本左内(はしもとさない)・梅田雲濱(うめだうんびん)・賴三樹三郎(らいみきさぶろう)等の志士数十人を厳罰に処して、世論の沸騰を弾圧しようとした。 これを安政の大獄といふ。 しかしこのやうな暴挙の結果はますます朝廷の御信頼を失ひ、有力な諸藩の離反を大にしたのみならず、尊攘の志士をいよいよ激昂(げっかう)せしめ、直弼は蔓延(まんえん)元年(2520)3月、桜田門外で殺され、この事変によって幕府は急速に失墜した。 幕威の失墜 直弼の後を承(う)けた老中 安藤信正(あんどうのぶまさ)は畏れ多くも皇威を借りて時局を安定し、威信の恢復(かいふく)を図らうとして公武合體(こうぶがったい)を策し、将軍家茂(いへもち)のため皇妹(こうまい) 和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)の御降嫁(ごこうか)を奉請(ほうせい)して勅許を得たが、このやうな策略はかへって志士の憤激を招き、文久(ぶんきゅう)2年(2522)正月、信正は坂下門(さかしたもん)外に襲撃されて傷つき、ここに幕府政治の破綻(はたん)と幕威の失墜はもはや恢復する術もなく、尊皇攘夷の運動は天下に盛行することとなった。 日米通商条約(抄出) 第6条 日本人に対し法を犯せる亜米利加人は、亜米利加コンシュル裁判所にて吟味の上、亜米利加の法度(はっと)を以て罰すべし。 亜米利加人へ対し法を犯したる日本人は、日本役人糺(ただし)の上、日本の法度を以て罰すべし。 勤皇志士の忠烈 身はたとひ武蔵の野邊に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂 (吉田松陰) 君が代を思ふ心の一すぢに 我が身ありとは思はざりけり (梅田雲濱(浜)うめだうんぴん)

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