人種差別と黒人奴隷を推進してきた米国民主党 The Democrats have always been racist.

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著作 hiroyuki saito and Hiroyuki saito の情報はPlayer FM及びコミュニティによって発見されました。著作権は出版社によって所持されます。そして、番組のオーディオは、その出版社のサーバから直接にストリーミングされます。Player FMで購読ボタンをタップし、更新できて、または他のポッドキャストアプリにフィードのURLを貼り付けます。
あなたは米国の政党で、人種平等と人権と言えば、どちらの政党を思い浮かびますか? 民主党?それとも共和党? おそらく民主党と答える人がほとんどでしょう。 しかし、それは本当でしょうか? 民主党は1829年に結党されましたが、結党以来、ほとんどの公民権運動に反対してきたのです。 さらに長い間、人種差別を行ってきました。 民主党は奴隷制を支持し、南北戦争を起こしました。そして、南部軍(アメリカ連合国)が敗戦した後の再構築(コンストラクション)の時代、北部軍(アメリカ合衆国)が主導する奴隷解放政策に、かたくなに反対してきました。 クー・クラックス・クラン(KKK)を創設し、人種隔離政策を推進してきました。黒人奴隷たちをリンチして迫害し続けてきたのです。 1950年から1960年代にかけて、共和党が押し進めてきた公民権法の成立にも、強行に反対してきました。 其の一方、共和党は1854年に結党。 結党の主な目的は、奴隷制廃止でした。 共和党の使命は、西部に向けて開拓してきた米国が、其の地域で新たに奴隷制度が広がるのを食い止めることでした。そして、全米における奴隷制度の完全な廃止を、目標に掲げていました。 しかし、1856年、ある事件が起きました。 それは、ドレッド・スコット対、サンフォード事件です。 サンフォードは、奴隷として、黒人のドレッド・スコットを購入して、使用していました。 10数年間、奴隷として仕えた後、黒人のドレッド・スコットは、奴隷ではなく自由の身である、として裁判所に告訴しました。 なぜ、其のような訴えをしたかというと、ドレッド・スコットたちが住んでいたミズーリ州の州法では、奴隷が禁止されていたからです。 最終的には、連邦最高裁判所まで上告されて、最高裁では、次の判決を出しました。 「アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれない。」 つまり「奴隷は、米国市民ではなく、白人の資産である」と。 斯の最高裁の判事の内訳は、民主党7人、共和党2人でした。 もちろん、奴隷制を支持したのは、民主党7人の判事たちでした。 奴隷開放運動は、戦争と言う形に現れてしまいました。 1860年11月6日の選挙において、共和党の最初の党首であったリンカーンは、米国合衆国大統領に決まりました。 しかし、黒人奴隷制度を行っていた南部の11州は、リンカーンが大統領に就任することを認めませんでした。 翌年の3月4日に、ワシントンDCで行われる大統領就任式までに、米国合衆国から独立。 新たに憲法も制定して、アメリカ連合国を建国しました。 1861年3月4日、リンカーンは大統領就任式にて、次のような演説をしました。 「南部諸州の人々の間には、共和党が政権を掌握したために、彼らの財産と平和と個人の保障が、おびやかされようとしているという、心配があるように思われます。 このような心配は、もっともな理由はありませんでした。いや、心配とは反対に、安心してしかるべき、十分な証拠がありましたので、あなたがたが調べたいと思えばいつでも調べられたのです。 そのことは、私のほとんどすべての、おおやけの演説の中にもみられます。その中の、ただ一つだけを引用すれば、私は「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思はない。」と、のべています。 われわれは、てき同士ではなく、友であります。われわれは敵であってはなりません。」と。 しかし、このリンカーンの呼びかけに対して、南部の州は、武力による徹底抗戦の道を選択しました。 1861年4月、リンカーンは、北軍(アメリカ合衆国)の最高司令官として南軍と対峙することとなりました。 1965年3月、大統領に再選されたリンカーンは、其の就任演説で次のように述べました。 「われわれがひたすら望み、切に祈るところは、この戦争という強大な(天からの惨禍)が速やかに過ぎ去らんことであります。 しかし、もし神の意思が、奴隷の二百五十年にわたる、報いられざる苦役によって、蓄積されたすべての富が絶滅されるまで、また、惨禍によって流された血の一滴、一滴に対して、つるぎによって流される血の償いがなされるまで、この戦争が続くことにあるならば、さんぜんねん前にいわれたごとく、今なお、(われわれも)「主のさばきは、真実にしてことごとく正し」、(詩篇19.9)といわなければなりません。 なんびとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示し給う、正義に堅く立ち、われらの着手した事業を完成するために、努力をいたそうではありませんか。 国民の創痍を包み、戦闘に加わり斃れた者、その寡婦、その孤児を援助し、いたわるために、わが国民の内に、またすべての諸国民との間に、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。」と。 1865年1月31日、奴隷制を公式に廃止し、禁止する憲法修正第13条が批准。 1865年4月9日、南軍(アメリカ連合国)が、北軍(アメリカ合衆国)に降伏し、南北戦争が終了。 4月14日、民主党のジョン・ウイルクス・ブースは、リンカーンを暗殺。これにより、副大統領だった民主党のアンドリュー・ジョンソンが、大統領となりました。 当時は、大統領と副大統領が異なる政党だったのです。 ジョンソン大統領は、新たに解放された奴隷達を南部の経済と社会秩序に統合する、というリンカーンの奴隷解放政策に、かたくなに反抗しました。 ジョンソン新大統領と民主党は、黒人の権利を認める以下の憲法修正案に、頑固に反対しました。 1965年1月31日、奴隷制を禁止した、憲法修正13条が批准。 1867年、黒人に市民権を与えるという、憲法修正14条が批准。 1870年、黒人に選挙権を与えるという、憲法修正15条が批准。 これらの修正案は、共和党全体が支持したことで、全て成立しました。 南部軍が降伏した後、合衆国に再併合した南部の11州の再構築(レコンストラクション)の時代、連邦軍が南部の州に駐留していました。 しかし、1877年の大統領選挙において、共和党のラザフォード・ヘイズと、民主党サミュエル・ティルデンの間で戦われました。 選挙後の最初の開票結果は、民主党のティルデンが184票、共和党のヘイズは165票。そして、未集計の票が20票。この未集計の選挙人の州の内訳は、サウスカロライナ州(7票)・フロリダ州(4票)・ルイジアナ州(8票)とオレゴン州(1票)。 なぜ、これらの州は決まらなかったかというと、民主党と共和党のそれぞれの党が、その候補者の勝利を報告したからです。 この20票の扱いについてどうするかが議論となり、連邦議会は、選挙委員会を作り、議論を重ねました。そして、選挙委員会は、なんと、この20票を全て、ヘイズに割りあてることとしたので、共和党のヘイズの合計得票数は185票となりました。 その結果、民主党ティルデンの184票に対して、わずか1票差で勝利し、ヘイズが大統領になることができました。 この時は、選挙人投票において、候補者の一人が過半数を獲得したことになるので、下院の連邦議会での投票は行われることはありませんでした。しかし、投票で決まったわけではなく、選挙委員会による話し合いにより決まった事例となります。 1877年、大統領となったラザフォード・ヘイズは、南北戦争以来、南部の州に駐留していた、連邦軍を、撤収しました。 なぜ、ラザフォード・ヘイズは、このような決断をしたのでしょうか? 大統領選挙における20票の取扱で、民主党側から、「北軍の引き揚げをするならば、共和党のヘイズに20票を全て与える」、という裏取引があったのではないかと言われています。 当時の民主党は、南部の州の白人農場主の多くを支持基盤としていたので、其の白人農場主からの圧力により、奴隷制度を復活したかったのです。 この大統領選挙を巡る20票の取扱により、リンカーン大統領が押し進めた、「奴隷解放」運動も、水の泡となってしまいました。 連邦軍が南部の州から引き揚げると、民主党が権力の座に返り咲きました。 それまで、共和党によって公職追放されていた民主党員たちは、地域全体で直ちに白人優位社会を再建しました。 1865年と1866年、南部の各州において、黒人法(Black Codes)が成立。 この法律により、黒人が資産を所有し事業を行うことを制限されました。また、人頭税と読み書きの試験を課すことで、事実上、黒人の投票権を剥奪していきました。 又、1976年、人種隔離政策を合法化した、ジム・クロウ法も成立。 (ジム・クロウ法の廃止は、約1世紀後の1964年、公民権法の成立まで、待たなければなりませんでした。) これにより「分離されているが平等」という名の元で、職場や学校、飲食店など、様々な場所で白人と黒人が隔離されていきました。 民主党は、どのようにして、このような人種差別を実施して行ったのでしょうか? それは恐怖政治を扇動することによって実施していきました。 民主党は、クー・クラックス・クラン (KKK)を創設しました。 創設者は、ネイサン・ベッドフォード・フォレストでした。 歴史家のエリックフォーナーは次のように記しています。 事実上、クー・クラックス・クラン (KKK)は、民主党のための軍隊組織として活動していきました。 1913年から1921年まで大統領だった、民主党のウッドロー・ウイルソン は、クー・クラックス・クラン (KKK) と共通する考え方を多く持っていました。 1918年12月、第一次世界大戦終了後の世界秩序を話し合うため、パリで開催された講和会議にて、国際連盟の創設について話し合われました。 其の設立準備委員会にて、日本全権の牧野伸顕らは、国際連盟憲章に人種差別の禁止を盛り込むという、人種的差別撤廃提案を提案しました。 この提案に対して、参加国の投票結果は、11対5の賛成多数だったのですが、委員長を勤めた、民主党の ウッドロー・ウイルソンは、否決してしまいました。 なぜ、ウッドロー・ウイルソンは、賛成多数の人種差別撤廃法案を否決したのでしょうか? それは、ウッドロー・ウイルソンが、 クー・クラックス・クラン (KKK)と同じ人種差別主義者であったからです。 ウイルソン大統領は、多くの政府関係機関において、人種隔離政策を実施しました。特に、ホワイトハウスで初めて上映した映画も、「国民の創生(バース・オブ・ネイション)」という人種差別を主題とする映画でした。 ウイルソン大統領は、クランズマン(クラン構成員)だったのです。 1964年、公民権法(Civil Rights Act)が話し合われましたが、この法案に強硬に反対したのが民主党でした。 80%の共和党員がこの法案に賛成でしたが、民主党の上院議員が75日間、議事妨害を行ったため、共和党は、この状況を打開するために、僅かながら、さらなる票を獲得する必要がありました。 最終的に、この公民権法案が可決成立。 この法案の成立により、約1世紀にわたり人種隔離政策を行ってきたジム・クロウ法も廃案となりました。 黒人を奴隷として扱い、資産を持つことも、事業を行うことも認めず、投票権も市民権も剥奪してきた民主党。 これらの取組が全て失敗に終わると、民主党は新たな戦略を行いました。 それは、黒人に投票権を与えるのであれば、民主党に投票させればいい、という戦略です。 リンドン・ジョンソン大統領は公民権法について次のように語りました。 「ニガー、(黒人)には、200年間にわたりずっと、民主党に投票させてやろう」と。 そして、民主党は、自分たちがこれまでずっと抑圧してきた、黒人奴隷だった人たちの投票のおかげで、多くの議席を獲得することができ、繁栄しているのです。 人種平等と人権を擁護する政党と言えば、民主党であると多くの人が考えています。 しかし、民主党は、結党以来、黒人奴隷や人種差別を推進してきたのです。
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