ブックレビュー(25) 山本七平『「空気」の研究』文春文庫

 
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 今日は山本七平さんの『「空気」の研究』という本を紹介します。  著者の山本七平さんという方は、1921(大正10)年のお生まれで、1942(昭和17)年に青山学院高等商業学校を卒業されましたが、当時は太平洋戦争中であったため、卒業後、山本さんは直ちに徴兵されています。この軍隊経験は、後に『一下級将校の見た帝国陸軍』などの著作の中で掘り下げられています。戦後は1958年に山本書店を創立され、書店主として主に聖書関係の出版物の刊行を始めました。この書店から1970年にイザヤ・ベンダサンという名義で『日本人とユダヤ人』という本を出版されていますが、これはユニークな日本人論として注目を集めました。その後も、山本七平名義で日本人ないし日本に関する多くの評論を執筆されましたが、1991年に亡くなられています。  今日ご紹介する『「空気」の研究』は、1977年に文藝春秋から刊行され、現在は文春文庫で読める本です。ここで言う「空気」とは、「空気を読む」などという言葉で表す対人関係の雰囲気を意味しています。今日、この意味での空気は、ある意見に従わざるを得ないようにさせる暗黙の了解を意味する「同調圧力」と言う言葉で表現されることがありますが、本書はそのような心理的な現象が発生しやすい日本の文化的な背景について考察しています。  本書の冒頭部分では、戦艦大和の特攻出撃が無謀であったことは論理上もデータ的にも明白であったにも関わらず、「全般の空気よりして」避けられなかったという関係者の証言が引用されています。この例に見られるように、空気の支配は、極めて不合理な意思決定をもたらし、悲劇的な結果に終わることがあります。しかし、至る所で人々は、何かの最終的な決定者が「人ではなく空気」であると言っていると、山本さんは指摘しています。ある意思決定が空気によるものだと言われれば、空気を相手に議論するわけにはいかないので、最早反論の方法がなくなるし、空気の責任は誰も追及できなくなるからです。  この点に関連して、山本さんは、論理的な判断と空気的な判断というものは截然と別れているのではなく、むしろ議論における言葉の交換自体が一種の空気を醸成するという形で両者は一体になっているという興味深い指摘を行っています。従って、また空気は本来、自然発生的に醸成されるから空気と呼ばれるのだけれども、実はある種の意図を持って作為的に醸成することも不可能ではないのだとも述べています。  この空気には責任の所在を曖昧にする効果があり、そのために作為的に空気が醸成されることがあるという指摘は、至る所で作り出される空気の本質を突いていると思います。そう考えてみると、「空気が」「空気が」と言う者は、判断の責任を自分や誰かが負うことを避けるために、自ら空気を作り出しているに過ぎないのだということが分かります。  しかし、山本さんの考察は、この点を追求する方向には向かわず、空気が持つ絶対的な影響力を、宗教的な臨在感というものに結び付ける方向に進んでいきます。ここで臨在感と言う言葉は、物質の背後に何かが存在しているという感じ方と言う程の意味で使われています。例えば、故人となった大切な人の遺影は、物質として見れば感光液が塗られた紙に過ぎませんが、私たちはそれをどうしても粗末に扱うことはできないでしょう。それは写真の背後に何か霊的なものが臨在しているという感じ方を持っているからだと言う訳です。山本さんによれば、明治期の啓蒙主義は、このような「霊の支配」を単に非科学的なものとして否定したのだけれども、その支配力は、いくら「ないこと」にしても、現に「ある」ものは「ある」ので、却って猛威を振るうようになったとしています。そして、なぜ我々は何らかの臨在感に支配されるのかを解明した上で、空気の支配を断ち切る方がむしろ科学的だと述べています。  しかし、こうした臨在感の影響は、日本に限った現象ではないのではないでしょうか。確かに絶対者の存在を前提とするユダヤ教やキリスト教の世界観では、物に霊性や神格を認める思想は偶像崇拝として否定されますが、それが宗教的な禁止の対象になるということは、物に霊性が宿るという見方、すなわちアニミズムと呼ばれるものが日本人に限らず、人間の自然な感性に根差していることを裏書きしているように思われます。  この辺りの山本さんの考察はどうも分かり難いのですが、この空気の支配に対して我々日本人の祖先は抵抗するための知恵を持っていたという指摘は、また非常に興味深いものです。それは「水を差す」という方法だと言うのです。  山本さんによれば、水を差すと言うのは、「世の中はそういうものじゃない」とか「世の中はそういうものです」とか言う形で、経験則に基づいて思考を打ち切らす方法であり、それが一瞬にしてその場の空気を崩壊させることがあるとしています。このような場合、「水」は通常、具体的な目前の障害を意味しており、それを口にすることによって人々を現実に引き戻す効果があるとも述べています。  しかし、水は空気に対して無力なことがあり、現に太平洋戦争の直前には先立つものがなかったため、差すべき水はあったにも関わらず差せなかった訳です。このことを踏まえて山本さんは、戦後の一時期自分たちが盛んに口にした自由とは、水を差す自由だったのだと振り返っています。この通常性を意味する水についても、この他、日本文化の特質との関連で興味深い考察が展開されています。  『「空気」の研究』は決して分かりやすい本ではありません。特に著者が執筆当時の社会的・政治的な情勢を背景として取り上げたトピックには、今日からみると重要性や、それに対する解釈に理解し難い点があり、それがまた本書を難解にしているようです。しかし、本書は恐るべき力を持つことがある「空気」について、初めて文化論的な考察を加えた画期的な著作であり、組織的な意思決定に関わる人ならば一度は読むべきものだと思います。 今回のまとめ:空気による支配が発生する理由を、日本の文化的背景と関連づけて考察した画期的な評論です。

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