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BR19 オイゲン・ヘリゲル述(柴田治三郎訳)『日本の弓術』(岩波文庫)

 
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今回のまとめ: この本は、外界と自己の区別が消え去った無我の境地が自然になすべき行動をとらせるという経験を語っています。  今日は、オイゲン・ヘリゲルというドイツ人の哲学者による講演録で、現在、岩波文庫で読むことができる『日本の弓術』という本を紹介します。  オイゲン・ヘリゲルという人は、1884年にリヒテナウという市に生まれ、ハイデルベルク大学で教鞭を執っていた新カント学派の哲学者だったということですが、1924年(大正13年)に東北帝国大学に招聘されて来日し、5年間滞日しました。その間、阿波研造(あわ けんぞう)という師範について弓道を修行し、帰国するときには五段の免状を授けられています。  ヘリゲルは、修行の動機について、それまで神秘説の思想に関心があったところ、知人から日本の仏教の精神を把握するためには何か1つ術を習うとよいと教えられたからだと述べています。ここで神秘説と訳されている語は、一般的に神秘主義と呼ばれる宗教思想を総称したもので、絶対者と自己の合一、つまり自己の内面において絶対者の存在を直接体験する「神秘的合一」を指向する思想を言っていると思います。この思想自体は仏教に限らず、キリスト教やユダヤ教など多くの宗教から派生しているもので、もともとヘリゲルが関心を持っていたのはドイツの神秘主義思想だったようです。  ヘリゲルは帰国後、1936年にベルリン独日協会で「騎士的な弓術」と題する講演を行なっており、その講演録が日本で翻訳出版されました。それが本書ですが、ヘリゲルは後に講演の内容を拡張し、1948年には「弓術における禅」と題する本を出版しています。これには『弓と禅』と題する日本語訳がありますが、英訳もされたため広く世界的に読まれました。スティーブ・ジョブズの愛読書でもあったそうで、それに触発されたせいか、この本を座右の書として上げる起業家が少なくないようです。ただ、ヘリゲルが弓道を通じて会得した思想が、経営とどう結び付くのかは、真面に論じられたことがないようです。私は、その思想は『弓と禅』よりも『日本の弓術』の方に生き生きと述べられていると思うので、これを手掛かりに私なりの解釈を話してみたいと思います。  ヘリゲルは、まず講演の冒頭で、日本の弓術はスポーツではなく、「純粋に精神的な鍛錬」を目的とするものであること。もとは戦のために修練された術であるけれども、血なまぐさい目的に使われなくなることによって、射手の自分自身との対決という本質的な意義がはっきりしたのだと言います。また弓術は「弓と矢をもって外的に何事かを行なおうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている」のだと言い、その果たそうとする目的こそが「神秘的合一」なのだと述べています。  その上で、阿波師範の指導のもとで、様々に悩みながら修行に励んだプロセスが振り返られるわけです。まず阿波師範は、「弓を腕の力で引いてはいけない、心で引くこと」だと教え、その正しい引き方ができるまでに1年を要したと言います。次に矢を放つ段階になると、師範は、矢を射放とうという意思をもって右手を開くのではなく、無心になり「矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない」と言い、さらには無心になろうと努めてもいけないと言います。この射方ができるようになり、4年後に漸く的を射る段階になると、今度は的を狙ってはいけないと言われます。深く心を凝らすと、的が自分の方に近づいてきて自分と一体になる。そのとき矢は的の中心にある。それゆえ的を狙わずに自分自身を狙いなさいと、言われるのです。  この「的を狙わずに射当てることができる」ということをヘリゲルが承服できずにいると、師範は「あまり使いたくない手ではあるが」と言って、その夜、あらためて道場に来るように指示します。そして、的をかける盛土の前に1本の線香の火を点し、その光のみが灯る真っ暗な所にある的の中心に第1の矢を命中させ、さらに第2の矢を第1の矢の末端(筈)に命中させて2つに割いて見せました。そして、この第2の矢は私から出たのでもなければ、私が当てたのでもないと言い、その意味をヘリゲルに考えさせたのです。  その後、ヘリゲルは疑うことも問うことも諦めて稽古を続け、やがて「射られる」ということがどういう意味かを知ったと回想しています。  この射るものが即ち射られるものであるということは、あらゆる外界と自己の区別がない無我の境地に入ることによって、宇宙との一体感を経験することを意味しているのでしょう。弓で矢を射るという行為は、それ自体が目的ではなく、この境地に達するための手段として位置づけられている訳です。ジョブズが、ヘリゲルの著述から何を受け取っていたのかを私は知りませんが、経営者にとっても、事業の成功そのものを目的とするというより、むしろ無心に事業に関わることを通じて、自社とその外界にある顧客や競合他社などを総て一体として把握する態度があり得るのではないかと思います。そのような態度が生成するとき、ことさら戦略など考えなくとも、経営者の体は自らがなすべき事柄に向かって動くのではないでしょうか。  ただ、ヘリゲルは講演の最後に、この合一という境地を祖国のために自らの死をも受入れる日本人の愛国心に結びつけて論じているのですが、こういう解釈には注意が必要です。自己が合一する絶対者の存在を国家とか民族という言葉で切り取ること自体、既に絶対者、宇宙との合一という思想に反していると言わざるを得ません。
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