ヨハネの福音書5章1節~9節 「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」

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その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「よくなりたいか」
 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に下りて行きます。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げ、歩きなさい。」
 するとすぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」
① 1節を見ますと、「ユダヤ人の祭りがあって・・」と書かれてあります。
しかし、その祭りが、どんな祭りであったのかについては、記されていません。
それは、この出来事の場合、そのことはあまり大事な事ではなかったからです。
・この日はある祭りの日でした。 ユダヤの人たちにとって、祭りは、どの祭りであっても、「神に、感謝をささげる日」でありましたが・・  祭りには、もう一つの側面がありました。 
・それは、親しいものが集まり、ご馳走を食べ、お祝いする日。そういう楽しく嬉しい特別な日であったのです。
・余り裕福ではない人たちにとっても、祭りの日は、特別な日でした。 
人々は、このときとばかりに、家族や、親族、友人たちと集まって、食事を共にしたのです。
・ですから、この日も、町のあちらこちらから、人々の歓声や笑い声が聞こえていた、と思われます。
〇では、この人々が集まって楽しい時をすごしている、この祭りの日に、主イエスはどうされたのか、と言いますと・・この日、主イエスはある所に向かっていたのです。 それは、人々の歓声が響いている、そういう喜びの場とは、対照的な、一種異様な場所でした。 
・そこには、ベテスダと呼ばれる池があって・・そこに五つの回廊がついていて、その回廊には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、体にまひのある人たちが大勢横になっていたのです。
②以前、看護師をなさっていたAさんという方から、こんな話を聞いたことがあります。
・それは、彼女が、産婦人科病棟で働いていた時の事です。一人の患者さんが個室におられたのだそうです。
 この患者さんは、産後の入院をしていたのではなく、残念ながら、その日の朝、その方の赤ちゃんは、生まれずに、結局、死産となってしまい・・ この方は、今、この個室に収容されていたのです。
・看護師のA子さんは、その病室に入ると、「失礼します。具合はいかがですか?」と、この患者さんに声をかけたのですが・・返事がない。
・そこで、その方の表情を覗き込むと・・その方は、ぼうぜんと天井を見つめていたのだそうです。
・その時・・部屋の外で、がやがやと人の気配がしたかと思うと、こういう声が聞こえてきたのだそうです。 
「おめでとう・・よかったねえ・・かわいい子を産んだわね・・本当に、おめでとう!」
・人々の歓声が響く・・ 一方、その陰で・・呆然と天井を見つめている人がおられる・・人は、こういう、陰の出来事には、意外に気が付かないものです。
・主イエス・キリストの向かわれたところ・・そこには、人々の歓声の届かないところで、呻いている人たちが大勢おりました。 
・主イエス・キリストは、いつも、その悲しむ人たちの方に向かって行かれる方であったのです。
きょうのこの出来事も、そういう出来事でした。
② ところで、このような池の周りに、人々はなぜ集まっていたのでしょうか・・。
・どうやら、この池は、間欠泉であったようです。 池の水は、ときどき、下から水がかき回される・・
そういう温泉でした。 そして、「この温泉の水が、かき回された、その時、・・最初にその池に、飛び込むと、その人の病気は治ってしまう。」そういう噂があったのです。
・しかし、この噂・・よく考えてみると、おかしな話です。 まるで、落語に出てくる話の様です。
温泉は、病気治療に良い、というのは、その通りでありましょう。
 ですから、そこでゆっくり温泉治療を行う、というのならわかります・・
・しかし、水がかき回された時、「一番先に飛び込めた人の病気が治る」というのは、よく考えてみるますと、とても変な話です。 水がかき回された瞬間、「それ!」と猛ダッシュすることのできる人がいるとしたら・・
その人は、元気な人です。もしかすると、一般の人より元気かもしれません。
・ですから、そういう人は、病気が治るというより・・病気はとっくに治っていた人・・あるいは、自分では病気だと思っていたけれども、実は普通の人より元気であった、そういう人です。 少なくとも、その人の病は、極めて軽いのに決まっています。 ですから、病気が完治する確率は、極めて高いのは当たり前のことでした。
・そうです。この「水がかき回された時、一番最初に入った者の病気が治る」これは、実にたわいのない・・迷信・・レベルの低いデマ、人を惑わすだけの、中身のない単なる噂であったのです。
〇では・・そのたわいない迷信や噂に動かされて、ここに集まっていた人たちを「愚かな人たち」、そうかたずけてよいのでしょうか・・。
・当時のユダヤ社会の医療について考えてみますと・・医者なのか、祈祷師なのか、詐欺師なのか、よくわからない人がたくさんいたようですし、現代から見ると、怪しい薬もたくさんあったようです。
・しかし、貧しい一般庶民は、重い病気になった場合、その、怪しげな医療さえも、受けることが出来ませんでした。
・また、後遺症が残ったりした場合は、・・神に捨てられた者であるかのような視線を周囲から浴びせられる・・そういう人権無視の社会であったのです。
・ですから・・貧しい一般庶民は、それが、うすうす迷信であると感じていたとしても・・結局、こういう所に、正に藁(わら)をも掴む思いで、来るしかすべがなかったのです・・。
・ですから、もし、この私が、もし、この時代、この社会に生きていて、重い病気になっていたとしたら・・ やはり、この私も、ここにいた人たちと同じ様に、この池のほとりに行き、そこに寝込んでいたのではないだろうか・・そんな風に思えてなりません。
・私たちは、どんなに「自分は強い」、「自分は愚かではない」と思っていても・・実は、弱い一人一人ではないでしょうか・・。 
・「神と共に生きる」そういう確かな足取りの中に居ないと・・誰もが、人の作り出す迷信や人の噂に動かされ、丁度浮き草のように、右往左往することになってしまう・・私たちは、そういう一人一人なのではないでしょうか・・。
③ さて、ここにいた人々の中に、38年もの間病気にかかっていて、毎日、この池のそばに来ては、横になって、ただ水面を見つめてきた、そういう人がいました。 主イエスは、その男の人のところに近づいてゆきます。
・そして、その人に、こう言われるのでした。  6節「よくなりたいか」・・
・「この問いかけ、ちょっと変な問いかけではないか?」そのように思われる方が多いと思います。
 中には、「病気にかかって苦しみの中に居る人に、よくなりたいか、と聞くのはちょっと失礼ではないか・・」
病気の人は、みんな、良くなりたい、と思っているに決まっているではないか・・」
そんな風に思われる方もおられかもしれません。
・しかしです。  彼は、何と、38年間もの長い間ここに来続けていたのです。 
この、38年という歳月が、どれほど長いものなのか、そのことを、よくよく考えてみますと・・
・38年間経っても、まだ、「良くなりたい」・・つまり、未だに病気回復への期待、意欲、そういう心を持ち続けている・・というのは、これはなかなか厳しいことです。
・38年というのは、人間にとって、それは不可能に近い、そういう時間ではないか・・そう思います。 
ですから、彼は、もしかすると、その病気が治ることを全く諦めていた可能性もあったと思うのです。
・主イエスは、その様な・・いわば、生きる意欲が極めて微弱な状態にある、その彼の、その心に語り掛けたのでした。→「よくなりたいか」 
・つまり、これは、単に病気がよくなりたいか、ということを聞いているだけではありませんで・・
「病気が良くなって、これからも、生きて行きたい、そういう、生きる意欲が、あなたの心の中に残っていますか?」このことを主イエスは、問いているわけです。
・また、この御言葉は・・単に質問している、というだけではありませんで・・この人の中に、「生きる」
という意志が、よみがえってくる、そのための、強い刺激であった、と私は思うのです。
・では、この問いかけに対し、この病気の人の返事は、どういうものであったのか、と言いますと・・
「はい、よくなりたいです。」「よくなって、もっともっと生きてゆきたいです。」 残念ながら・・こういう、力強い応えではありませんでした。
・では、「よくなりたいとは思っていません。このままでいいのです。どうせ直ぐに死ぬのですから・・」 
そういう、投げやりな・・生きる意欲の全くない失い、諦めきった応答であった訳でもありませんでした。
・この時、彼はこう言ったのです。→7節「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に下りてゆきます。」
・皆さんは、この人のこの返事をお聞きになって・・どのようなことをお思いになられるのでしょうか・・。
・「何を、甘ったれたこと言っているのだ!生きようとしなければだめではないか!」
もしかしたら、そんな風に思われた方がおられるかもしれません。
・しかし私は思います。このような力のない返事しかできなかった、この人は・・実に切なく、また不憫(ふびん)です。 あまりに気の毒・・そう思うのです。
・この彼の言葉から推測しますと・・彼の心は・・別に死にたくはない・・だからといって、病気が治って、これからも、ずっと生きて行くのだ!そういう生きる意欲のある心とも言えない・・。
生きることを完全に諦めてしまう、一歩手前・・そういう心の状態であったと思うのです。
・私たちも、彼のように・・病の中に置かれて、先が見えない時・・あるいは、老いを感じ、出来ることが、どんどん少なくなってゆく、そういう己の弱さを痛感させられる時・・この人と同じような心境になってゆく・・
・・いや、私たちも、みな、そうなって行かざるを得ないのではないでしょうか・・。
・しかし、主イエス・キリストは、このように呻いている人の所にこそ、近づいてゆかれる方であったのです。
➄では、主イエス・キリストは・・このような彼に対し、どうされたのでしょうか・・
・どうやら、この時、この人は、床に横になったまま、主イエスの顔を見つめていたようです。
・このような状態の彼に、主イエスは、何といわれたのか・・ですが・・
・「あなたは、そんなこと言っていてはだめです。そのような甘えた考え方は、今すぐに、改めるべきです。」
そんな、どこかの学校の生活指導の先生のようなことを言われたのでは、ありませんでした。
・主イエスは彼に、こう言われたのでした。→ 「起きて、床を取り上げ、歩きなさい。」
・実に、シンプルな言葉です。 シンプル過ぎて、一瞬、その意味するところが、よくわかりません・・。
・しかし、静まってよくよく考えてみると・・ここに、主イエス・キリストの、この人への・・そして、私たちへの、大事なメッセージがあることに気付かされます。
・主イエスは、彼に・・「誰かに、起こしてもらって・・、誰かに、寝床をたたんでもらって・・、
誰かに、歩かせてもらいなさい。」そのように言われたのではありませんでした。
・また、「わたしが、あなたを起こしてあげる。 わたしが、あなたの、寝床をたたんであげる。だから、あなたはそこに寝ていればいいのです。」そのように言われたのでもありませんでした。
・そうではありませんで・・主イエス・キリストは、彼に、このように命じたのです。
→「起きて、床を取り上げ、歩きなさい・」 つまり、「あなたは、今、自分で起き、自分でその寝床をたたんで・・そして自分の足で歩き出しなさい。」そう命じたのでした。
・すると、どうでしょう。病で38年間も自分では動けなかった彼は、自分で起き上がり、自分で床を取り上げ、歩き出したのでした・・。
〇私は、ここに・・主イエス・キリストが指し示しておられる、「本当の信仰」というものがある、と思います。
・私たちは・・信仰は・・神さまが与えて下さること。神さまからの一方的な恵み・・そう教えられています。聖書に、そう語られているからです。 確かに、その通りです。
・信仰、それは、主イエス・キリストの・・一方的な贖いの業により完了したのです。 
ですから、私たちは、それを、恵みとして、ただ受け取るだけでいいのです。 
これは、私たちの信仰の基本的考え方です。
・しかし・・その基礎的な知識、その観念・・それだけで生きてゆこうとすること、そういう生き方が、信仰に生きるということでありましょうか・・。
・一方的恵みを戴くことだけで生きてゆこうとする・・それだけで、留まっている。・・固まっている。 
それは、はたして、信仰によって、生きている、という活きた信仰でありましょうか?・・。
・信仰によって生きる、というのは、それは・・・神さまに、只依存している・・神さまに、只お任せしている・・神さまに、何でも丸投げしているだけ・・そして・・自分は、その生き方の、責任は取らない・・。そういうことではないのです・・。 それは、大きな勘違いです・・。
⑥主イエス・キリストの指し示している、本当の信仰者の生き方、その第一歩は・・「起きて、寝床をたたんで、 歩きなさい。」という御言葉に、<果敢に応答して>・・起きて、寝床をたたんで・・歩き出すこと・・。
私たちは、きょう、このことを、しっかりと心に刻みたいと思うのです・・。
・この男の人は、この主イエス・キリストの、このいのちのみことばに、応答し、立ち上がり、寝床をたたんで、歩き出したのでした。 私は、その場面を想像しますと・・激しく感動させられます・・。
・ところで・・この「よくなりたいか」という問いかけですが・・これは、38年間もここにいた、この人だけに掛けられた御言葉では、勿論ありません。
・この「よくなりたいか」という問いかけは、・・二千年前に生きていた、彼だけにされている、そういう問いかけではありません。 それは、他でもない、私たち一人一人に、・・きょう、問いかけられている御言葉であるのです。
・神さまは、きょう。 皆さんお一人お一人に近づき、皆さんの心にこう問いかけておられます。
 「よくなりたいか・・」
・「起きて、床を取り上げ、歩きなさい・・」
・私たちは、きょうから始まるこれからの日日一日、この御言葉に、凛(りん)としてお応えし、生きて行く・・生き抜いてゆく・・ そういう一人一人でありたいと思います・・。

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