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ルカの福音書7章1節~10節 「これほどの信仰を見たことがありません。」_北澤牧師

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イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わさわさ、ご足労くださるには及びません。
 あなた様を、わたしのような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。
 そうして私のしもべを癒してください。
 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士がいて、その一人に『ゆけ』といえば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えばそのようにします。」
 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰は見たことがありません。
 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。
① きょうの聖書箇所は、「神を信じるとは、どういうことなのか」「主イエス・キリストを信じるとはどういう
ことなのか」「キリスト者のあるべき信仰とは、どのような信仰であるべきなのか」 これらのことを学ぶことが出来る、そういう聖書箇所として、昔から人々に愛されてきました。
・そういうわけで、きょう、私たちも、この聖書箇所から、「主イエス・キリストを信じるとは、どういうこと
であるのか」について、私たちもここから学び、教えられて・・私たちの信仰が、大きくバージョンアップしてゆく・・そういうきっかけになったら・・そう思っております。
② しかしその前に、一つ、私たちの頭の中を整理しておかなければならないことがあります。
・それは、この「信じる」という言葉を使う場合、少なくとも日本語場合には、大きく分けて、二種類の意味があるということです。
・第一の意味は、「信じるとは、自分の中で、そうに違いないと思い込んでゆく」という意味です。
〇もう十年以上前の事になりますが・・
平塚聖契教会で牧師をしておりました時、教会に来ておられた一人の青年が、何と、私がかつらをしていて、それを隠している、と深く思い込んでいたことがありました。これにはとても困りました。
・私は、別に、彼がそう思い込んでいることについて何とも思わなかったのですが・・しかし、事実ではありませんでしたので、それとなく、間接的に、「かつらはまだ使ってはいない」ということを、その人に伝えようとしたのですが・・残念ながら、彼には全然通じませんでした。 
・彼は信じていたのです。 「あの牧師は、かつらを使っていて、それを隠しているに違いない!」
・私はこの時、こう思いました。 「人は、これが正しいと信じて疑わない、そういう心の状態になると・・心が頑なになり・・その人は、真実に近づくどころか・・真実からどんどん離れていってしまう。
信じるというのは、実に怖いことだ。」
 
・勿論、聖書が「主イエスを信じなさい」と言っている場合、このような意味での「信じる」ではありません。 
・しかし、世間の多くの人は、「神さまを信じる」ということも、要するに、その人が、固くそう思い込んでいる、そういうことの一つだ。このように思っている方が多いようですが・・これはひどい誤解です。
〇では、もう一つの「信じる」という言葉の使い方ですが・・
これは、・・「深く信頼している」こういう意味で使われる場合です。
・例えば・・「信じていた友人に、裏切られた。」こういう表現を聞くことがあります。
・これは・・その友人を、深く信頼していたのに、その友人がひどいことを自分にしてきた。 そういう時に使う表現です。 つまり、この場合は、深く信頼していたことを、信じていたと言っているわけです。
・聖書で、「神さまを信じなさい」と勧めている、この場合の「信じる」という意味は、この使い方。
「深く信頼してゆく」という意味です。
・ですから「神を信じなさい」という聖書の薦めは・・つまり、「神を深く信頼しつつ、どのような事があっても、その神への信頼を揺るがすことなく、全き信頼をもって、勇敢に生きて行きなさい。その信頼をもって生きてゆくときに、神様の愛の深さ真実さが徐々にしかし確実に見えてきます。」そういう薦めであるわけです。
③ きょうの聖書個所に出てくる百人隊長は、正に、その「信じるということ」の、本当の意味を、私たちに
教えてくれる人物でありました。
・では先ず、この百人隊長がどういう人物であったのかについて考えてみたいと思います。
・一節を見ますとこう書いてあります。 → 「イエスは・・カペナウムに入られた。」
 この記述から、この出来事は、カペナウムという町で起こったということがわかります。
・当時、この、ガリラヤ地方のカペナウムを治めていた、その領主は、ヘロデ・アンティパスという人物でした。 
彼は、ローマ皇帝公認の領主でした。
・したがって、この百人隊長は、このヘロデ・アンティパスの軍隊の、その百人隊長であったと思われます。
・では、この百人隊長は、どこの国の人であったのかですが・・先ず、彼は、ここで、ユダヤ人の長老を介して、主イエスに頼み事をしていますので・・このことから、彼がユダヤ人ではなかった、ということがわかります。
・また、ローマ人でもなかったと思います。 ユダヤ人のヘロデ・アンティパスが、ローマ人を雇うわけがないからです。 つまり、この人は、ローマ人でもなくユダヤ人でもなく、どこからか、やって来た、そのほかの外国人であったと思われます。
・3節を見ますと・・ユダヤ人の長老たちが、彼の要請を受けて、主イエスの所に来ていますので・・
 この百人隊長は、ユダヤ人たちに、大変尊敬されていた、そういう人物であったということがわかります。
・これは、珍しいことです。当時のユダヤ人たちの多くは、自分たち以外の外国人を「異邦人」と呼び、完全に見下していたからです。
・また、この後の、ユダヤ人の長老たちの発言からわかりますが・・この百人隊長は、ユダヤ人の為に、会堂を建ててあげた、そういう人物でした。 建設費の全額を彼が出したのかはわかりませんが・・この人がいたから、会堂が建ったことは間違いないようです。
・では、この百人隊長は「金も力もあった、だから、ユダヤ人の長老たちが彼を敬っていたのか、というと・・
 そのようなことは考えられません。 誇り高いユダヤ人たちは、そんなことで人を尊敬する人たちではなかったからです・・。
・この百人隊長が、ユダヤ人たちから、尊敬されていた、その一番の理由、それは、この人の人格、つまり、
この人の人柄、この人の誠実さ、故であったと思われます。
・この百人隊長が、大変優れた人格者であったことは、次の事からもわかります。
・この百人隊長には、僕(しもべ)がいました。(僕と言いますのは、つまりは奴隷です。)
現代風に言えば、雇われていた人といったらいいでしょうか・・。
・この時、その僕(しもべ)の中の、最も頼りにしていた僕が、病に掛かり、死にかけていたのです。
 そこで、この百人隊長は、主イエスに使いを送ってきたのでした。
・つまりこの百人隊長が、主イエスの所に、わざわざ長老たちを送り、熱心に、来てくださるようにお願いしたのは・・、そうです。自分の為ではなく、彼の所にいた、彼の奴隷の為だったのです。
・奴隷の為にここまでする。 これは、当時の人々の常識から考えると、実に稀な事でした。
④ では、使いを送って、この百人隊長は、主イエスに、どのようなお願いをしたのかと言いますと・・
3節「しもべを助けに来てください」こういうお願いでありました。
・このことを・・アラム語で「マラナ・タ」と言います。「マラナ・タ。マラナ・タ。」と歌う讃美歌がありますが・・あの「マラナ・タ」です。   
・この時、使いでやって来たユダヤ人の長老たちは、この百人隊長の願いを聞き留めてくださるように、と彼らは、彼ららしい言い方で一生懸命主イエスに頼みこむのでした。
・これを聞いた、主イエスは、この長老たちと一緒に、この百人隊長の家に向かいます。
・ところが・・この一行が、その家に近づいたとき、今度は、その百人隊長の友人たちがやってきて、こう言うのでした。「わざわざ、ご足労くださるにはおよびません」つまり「来なくていい」と言うのです。
・私が、この主イエスの一行に加わっていたとしたら 「え、なにそれ。・・来てくださいと言うから、わざわざやって来たのに・・今度は来なくていいと言う・・いったいどっちなのだ・・百人隊長は、来てほしいのか、それとも、来てほしくないのか・・」 そんな風に思ったかもしれません。
・しかし、その後に、主イエスは、「ご足労には及びません」ということの、その理由を聞きました時に、主イエスは、彼の、その信仰のすばらしさに驚き、そして、この人の信仰を次のように絶賛されるのでした。
・「あなた方に言いますが・・わたしはイスラエルの内でも、これほどの信仰を見たことがありません。」
⑤ 百人隊長の信仰の、どこが、そんなにすばらしいというのでしょうか・・。
・この百人隊長は、6節から7節の所で、このように申し伝えています。 
「あなた様を、私のような者の家の屋根に、お入れする資格は私共にはありません。また、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、お言葉を下さい。そうして私の僕を癒してください。・・」
・ここで、彼は先ず、こう言うのです。 
「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。」 
・彼は、今、恐れを抱いたのです。 当初、彼は、自分の僕が、死にそうなのを見て、何とかしなければと思い、ユダヤ人の長老に頼み込んでまでして、主イエスに、「来てください。」と頼んだのですが・・
・実際に、主イエスが、自分の家に向かってきた、という知らせを聞いたとき・・今度は、「そんなことは、畏れ多い事だ」という思いでいっぱいになったのでした。 つまり、彼は、主イエス・キリストへの強い、畏敬の念に包まれたのでした。
・畏敬とは・・尊敬のあまり、恐れをいだく、ということです。
・この「畏敬の念に包まれる」・・これは、あのペテロが、ガリラヤ湖の湖畔で主イエスと出会ったときも、そうでした。 ペテロは、「この方こそ、救い主なのだ!と悟ったその瞬間、「主よ、私から離れて下さい!」と言ったのですが・・その後、なにもかも捨てて、主イエスについて行ったのでした。 
・つまり、あの時のペテロも、そして、今回の百人隊長も・・口から出た発言と、その後の行動が、逆になってしまったのです・・ しかし、それは、主イエス・キリストへの深い畏敬故でありました。
・主イエス・キリストに、畏敬の念もって、ひれ伏しつつ、生きてゆく・・
 私も、できれば、こういう信仰者になりたいと心からそう思います。
⑥ この百人隊長の信仰の、そのすごさは、もう一つの彼の発言でわかります。
 それは、7節のこの発言です。「ただ、おことばをください。そうして私のしもべを癒してください。」
・彼は・・主イエス・キリストに、「ただ、おことばをください、そうすれば、あなたの、そのことばで、あの僕は癒されますから・・」 こう言っているわけです。
・よく考えてみると、彼のような信仰者は、そう多くないと思います。
・キリスト者の信仰・・それは、一般の人たちから見れば、みな同じような信仰者にみえるのかもしれませんが・・
 実は、顔がみな違うように、一人一人の信仰の、その中身、信仰の内容にはいい意味での違いがあります。
・感性豊かな信仰・・実践的で献身的な信仰・・どんな状況に置かれていても泰然自若としている信仰・・
 様々な内容の信仰者がおられます。そうです。信仰は、その中心部分では同じであるべきですが・・
私たちはクローンではありませんから一人一人に特色があります。もし、あらゆる面で同じあったら変です。 
・それにしても、私の牧会経験では、この百人隊長の様な信仰者は・・とても珍しいと感じます。
 
・私の牧会経験では・・この百人隊長のような状況に置かれた信仰者は、大抵の場合、こういう祈りをしてゆきます。 →「イエスさま。私の所に来て、そして、私を癒してください。」
「ついでに、できれば、私の話を聞いてほしいです。」 こんな感じです。
・しかし、彼は、この時、「イエスさま。来なくていいです。 ただ、おことばを下さればそれで充分です。
そうすれば、私のところで奴隷をしている、その人は癒されますから・・」そう言っている訳です。
・つまり彼は・・現代風に言えば、筋金入りの、聖書信仰に立っている信仰者であるわけです。
・もし、彼が、翻訳聖書の充実している、現代に生きていたら・・きっと、彼は、聖書の、み言葉を読んだら、ただ、それだけで、確信したと思います。  私は、神さまに救われている! 主は、私の罪を贖ってくださったのだ!  私は、何と愛されているのでしょう!・・
⑦ では、なぜ、彼は、主イエス・キリストのことばだけでいいと言い切れたのでしょうか・・?
その理由について、彼は、こう説明しています。
・8節「私も権威の下に置かれている者だからです。」 
 彼は軍隊の指揮官でしたので、この後、軍隊の中に流れている、絶対的ことばについて語ります。
・軍隊の話なんか聞きたくもない、と思う方もおられるかもしれませんが・・しかし、軍人であった彼は、こういう例話しか、主イエス・キリストの権威について説明するすべがなかったのでしょう。
・指揮官のことばを受けた兵士は・・その通りにしてゆく・・その命令と、実行との間には、何も入ることはない。 必ず指揮官のことばどおりになってゆくのです。・・こういう話を彼はするのでした。
・つまり、彼は・・主イエスからのことばがあれば・・必ず、そうなる・・そう考えている訳です。
・何というまっすぐな心なのでしょう・・。汚れている私などは、純粋すぎて、恥ずかしくなります。
・しかし、主イエス・キリストは・・そのまっすぐな信仰に驚き・・わざわざ、そこについて来た群衆の方に向かって、こう言われたのでした。
・「あなたがたに言いますが・・わたしは、神の祝福を受け継ぎ、真の信仰ということを証しなければならない、イスラエルの人々のうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
・勿論、この主イエス・キリストの御言葉は、当時そこにいた群衆に、そして、同時に、今、ここにいて、礼拝している現代の私たちに向かって、語りかけておられる御言葉であることは言うまでもありません。
・この人の信仰は・・神秘的な現象とか・・実利的な現象を経験すると、その信仰が強まって・・ハレルヤ!と叫ぶけれども・・そういう現象をしばらく見ないと・・その信仰がしぼんでしまう・・そういう信仰では
ありません。
・この人は、私たちと同じ様に、危機的状態に置かれた時、主の御手が差し伸べられる、その経験をするとその信仰が励まされでしょう。しかし、彼は、そのような経験が、たとえ、なくとも、神への信頼は揺るがない、そういう信仰なのです。
・彼は、・・「恐れるな。わたしはあなたの神だから。」と、聞けば、「そうだ、恐れることはない」と確信し、「私はあなたを愛している」と聞けば、「ああ、私は主に愛されている者だ」と確信してゆく信仰です。
・また、彼は、「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる人は死んでも生きるのです。」と聞けば、「この主イエス・キリストのところに、よみがえりのいのちがある。この方に繋がっている者は死んでも、尚、生きる。私たちを、そういう一人一人にしてくださるのだ。」と確信するに違いありません。
・何と幸いな信仰・・何と幸いな人でしょう・・。私たちもこの信仰に近づいてゆきたい、そう思います。
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イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わさわさ、ご足労くださるには及びません。
 あなた様を、わたしのような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。
 そうして私のしもべを癒してください。
 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士がいて、その一人に『ゆけ』といえば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えばそのようにします。」
 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰は見たことがありません。
 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。
① きょうの聖書箇所は、「神を信じるとは、どういうことなのか」「主イエス・キリストを信じるとはどういう
ことなのか」「キリスト者のあるべき信仰とは、どのような信仰であるべきなのか」 これらのことを学ぶことが出来る、そういう聖書箇所として、昔から人々に愛されてきました。
・そういうわけで、きょう、私たちも、この聖書箇所から、「主イエス・キリストを信じるとは、どういうこと
であるのか」について、私たちもここから学び、教えられて・・私たちの信仰が、大きくバージョンアップしてゆく・・そういうきっかけになったら・・そう思っております。
② しかしその前に、一つ、私たちの頭の中を整理しておかなければならないことがあります。
・それは、この「信じる」という言葉を使う場合、少なくとも日本語場合には、大きく分けて、二種類の意味があるということです。
・第一の意味は、「信じるとは、自分の中で、そうに違いないと思い込んでゆく」という意味です。
〇もう十年以上前の事になりますが・・
平塚聖契教会で牧師をしておりました時、教会に来ておられた一人の青年が、何と、私がかつらをしていて、それを隠している、と深く思い込んでいたことがありました。これにはとても困りました。
・私は、別に、彼がそう思い込んでいることについて何とも思わなかったのですが・・しかし、事実ではありませんでしたので、それとなく、間接的に、「かつらはまだ使ってはいない」ということを、その人に伝えようとしたのですが・・残念ながら、彼には全然通じませんでした。 
・彼は信じていたのです。 「あの牧師は、かつらを使っていて、それを隠しているに違いない!」
・私はこの時、こう思いました。 「人は、これが正しいと信じて疑わない、そういう心の状態になると・・心が頑なになり・・その人は、真実に近づくどころか・・真実からどんどん離れていってしまう。
信じるというのは、実に怖いことだ。」
 
・勿論、聖書が「主イエスを信じなさい」と言っている場合、このような意味での「信じる」ではありません。 
・しかし、世間の多くの人は、「神さまを信じる」ということも、要するに、その人が、固くそう思い込んでいる、そういうことの一つだ。このように思っている方が多いようですが・・これはひどい誤解です。
〇では、もう一つの「信じる」という言葉の使い方ですが・・
これは、・・「深く信頼している」こういう意味で使われる場合です。
・例えば・・「信じていた友人に、裏切られた。」こういう表現を聞くことがあります。
・これは・・その友人を、深く信頼していたのに、その友人がひどいことを自分にしてきた。 そういう時に使う表現です。 つまり、この場合は、深く信頼していたことを、信じていたと言っているわけです。
・聖書で、「神さまを信じなさい」と勧めている、この場合の「信じる」という意味は、この使い方。
「深く信頼してゆく」という意味です。
・ですから「神を信じなさい」という聖書の薦めは・・つまり、「神を深く信頼しつつ、どのような事があっても、その神への信頼を揺るがすことなく、全き信頼をもって、勇敢に生きて行きなさい。その信頼をもって生きてゆくときに、神様の愛の深さ真実さが徐々にしかし確実に見えてきます。」そういう薦めであるわけです。
③ きょうの聖書個所に出てくる百人隊長は、正に、その「信じるということ」の、本当の意味を、私たちに
教えてくれる人物でありました。
・では先ず、この百人隊長がどういう人物であったのかについて考えてみたいと思います。
・一節を見ますとこう書いてあります。 → 「イエスは・・カペナウムに入られた。」
 この記述から、この出来事は、カペナウムという町で起こったということがわかります。
・当時、この、ガリラヤ地方のカペナウムを治めていた、その領主は、ヘロデ・アンティパスという人物でした。 
彼は、ローマ皇帝公認の領主でした。
・したがって、この百人隊長は、このヘロデ・アンティパスの軍隊の、その百人隊長であったと思われます。
・では、この百人隊長は、どこの国の人であったのかですが・・先ず、彼は、ここで、ユダヤ人の長老を介して、主イエスに頼み事をしていますので・・このことから、彼がユダヤ人ではなかった、ということがわかります。
・また、ローマ人でもなかったと思います。 ユダヤ人のヘロデ・アンティパスが、ローマ人を雇うわけがないからです。 つまり、この人は、ローマ人でもなくユダヤ人でもなく、どこからか、やって来た、そのほかの外国人であったと思われます。
・3節を見ますと・・ユダヤ人の長老たちが、彼の要請を受けて、主イエスの所に来ていますので・・
 この百人隊長は、ユダヤ人たちに、大変尊敬されていた、そういう人物であったということがわかります。
・これは、珍しいことです。当時のユダヤ人たちの多くは、自分たち以外の外国人を「異邦人」と呼び、完全に見下していたからです。
・また、この後の、ユダヤ人の長老たちの発言からわかりますが・・この百人隊長は、ユダヤ人の為に、会堂を建ててあげた、そういう人物でした。 建設費の全額を彼が出したのかはわかりませんが・・この人がいたから、会堂が建ったことは間違いないようです。
・では、この百人隊長は「金も力もあった、だから、ユダヤ人の長老たちが彼を敬っていたのか、というと・・
 そのようなことは考えられません。 誇り高いユダヤ人たちは、そんなことで人を尊敬する人たちではなかったからです・・。
・この百人隊長が、ユダヤ人たちから、尊敬されていた、その一番の理由、それは、この人の人格、つまり、
この人の人柄、この人の誠実さ、故であったと思われます。
・この百人隊長が、大変優れた人格者であったことは、次の事からもわかります。
・この百人隊長には、僕(しもべ)がいました。(僕と言いますのは、つまりは奴隷です。)
現代風に言えば、雇われていた人といったらいいでしょうか・・。
・この時、その僕(しもべ)の中の、最も頼りにしていた僕が、病に掛かり、死にかけていたのです。
 そこで、この百人隊長は、主イエスに使いを送ってきたのでした。
・つまりこの百人隊長が、主イエスの所に、わざわざ長老たちを送り、熱心に、来てくださるようにお願いしたのは・・、そうです。自分の為ではなく、彼の所にいた、彼の奴隷の為だったのです。
・奴隷の為にここまでする。 これは、当時の人々の常識から考えると、実に稀な事でした。
④ では、使いを送って、この百人隊長は、主イエスに、どのようなお願いをしたのかと言いますと・・
3節「しもべを助けに来てください」こういうお願いでありました。
・このことを・・アラム語で「マラナ・タ」と言います。「マラナ・タ。マラナ・タ。」と歌う讃美歌がありますが・・あの「マラナ・タ」です。   
・この時、使いでやって来たユダヤ人の長老たちは、この百人隊長の願いを聞き留めてくださるように、と彼らは、彼ららしい言い方で一生懸命主イエスに頼みこむのでした。
・これを聞いた、主イエスは、この長老たちと一緒に、この百人隊長の家に向かいます。
・ところが・・この一行が、その家に近づいたとき、今度は、その百人隊長の友人たちがやってきて、こう言うのでした。「わざわざ、ご足労くださるにはおよびません」つまり「来なくていい」と言うのです。
・私が、この主イエスの一行に加わっていたとしたら 「え、なにそれ。・・来てくださいと言うから、わざわざやって来たのに・・今度は来なくていいと言う・・いったいどっちなのだ・・百人隊長は、来てほしいのか、それとも、来てほしくないのか・・」 そんな風に思ったかもしれません。
・しかし、その後に、主イエスは、「ご足労には及びません」ということの、その理由を聞きました時に、主イエスは、彼の、その信仰のすばらしさに驚き、そして、この人の信仰を次のように絶賛されるのでした。
・「あなた方に言いますが・・わたしはイスラエルの内でも、これほどの信仰を見たことがありません。」
⑤ 百人隊長の信仰の、どこが、そんなにすばらしいというのでしょうか・・。
・この百人隊長は、6節から7節の所で、このように申し伝えています。 
「あなた様を、私のような者の家の屋根に、お入れする資格は私共にはありません。また、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、お言葉を下さい。そうして私の僕を癒してください。・・」
・ここで、彼は先ず、こう言うのです。 
「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。」 
・彼は、今、恐れを抱いたのです。 当初、彼は、自分の僕が、死にそうなのを見て、何とかしなければと思い、ユダヤ人の長老に頼み込んでまでして、主イエスに、「来てください。」と頼んだのですが・・
・実際に、主イエスが、自分の家に向かってきた、という知らせを聞いたとき・・今度は、「そんなことは、畏れ多い事だ」という思いでいっぱいになったのでした。 つまり、彼は、主イエス・キリストへの強い、畏敬の念に包まれたのでした。
・畏敬とは・・尊敬のあまり、恐れをいだく、ということです。
・この「畏敬の念に包まれる」・・これは、あのペテロが、ガリラヤ湖の湖畔で主イエスと出会ったときも、そうでした。 ペテロは、「この方こそ、救い主なのだ!と悟ったその瞬間、「主よ、私から離れて下さい!」と言ったのですが・・その後、なにもかも捨てて、主イエスについて行ったのでした。 
・つまり、あの時のペテロも、そして、今回の百人隊長も・・口から出た発言と、その後の行動が、逆になってしまったのです・・ しかし、それは、主イエス・キリストへの深い畏敬故でありました。
・主イエス・キリストに、畏敬の念もって、ひれ伏しつつ、生きてゆく・・
 私も、できれば、こういう信仰者になりたいと心からそう思います。
⑥ この百人隊長の信仰の、そのすごさは、もう一つの彼の発言でわかります。
 それは、7節のこの発言です。「ただ、おことばをください。そうして私のしもべを癒してください。」
・彼は・・主イエス・キリストに、「ただ、おことばをください、そうすれば、あなたの、そのことばで、あの僕は癒されますから・・」 こう言っているわけです。
・よく考えてみると、彼のような信仰者は、そう多くないと思います。
・キリスト者の信仰・・それは、一般の人たちから見れば、みな同じような信仰者にみえるのかもしれませんが・・
 実は、顔がみな違うように、一人一人の信仰の、その中身、信仰の内容にはいい意味での違いがあります。
・感性豊かな信仰・・実践的で献身的な信仰・・どんな状況に置かれていても泰然自若としている信仰・・
 様々な内容の信仰者がおられます。そうです。信仰は、その中心部分では同じであるべきですが・・
私たちはクローンではありませんから一人一人に特色があります。もし、あらゆる面で同じあったら変です。 
・それにしても、私の牧会経験では、この百人隊長の様な信仰者は・・とても珍しいと感じます。
 
・私の牧会経験では・・この百人隊長のような状況に置かれた信仰者は、大抵の場合、こういう祈りをしてゆきます。 →「イエスさま。私の所に来て、そして、私を癒してください。」
「ついでに、できれば、私の話を聞いてほしいです。」 こんな感じです。
・しかし、彼は、この時、「イエスさま。来なくていいです。 ただ、おことばを下さればそれで充分です。
そうすれば、私のところで奴隷をしている、その人は癒されますから・・」そう言っている訳です。
・つまり彼は・・現代風に言えば、筋金入りの、聖書信仰に立っている信仰者であるわけです。
・もし、彼が、翻訳聖書の充実している、現代に生きていたら・・きっと、彼は、聖書の、み言葉を読んだら、ただ、それだけで、確信したと思います。  私は、神さまに救われている! 主は、私の罪を贖ってくださったのだ!  私は、何と愛されているのでしょう!・・
⑦ では、なぜ、彼は、主イエス・キリストのことばだけでいいと言い切れたのでしょうか・・?
その理由について、彼は、こう説明しています。
・8節「私も権威の下に置かれている者だからです。」 
 彼は軍隊の指揮官でしたので、この後、軍隊の中に流れている、絶対的ことばについて語ります。
・軍隊の話なんか聞きたくもない、と思う方もおられるかもしれませんが・・しかし、軍人であった彼は、こういう例話しか、主イエス・キリストの権威について説明するすべがなかったのでしょう。
・指揮官のことばを受けた兵士は・・その通りにしてゆく・・その命令と、実行との間には、何も入ることはない。 必ず指揮官のことばどおりになってゆくのです。・・こういう話を彼はするのでした。
・つまり、彼は・・主イエスからのことばがあれば・・必ず、そうなる・・そう考えている訳です。
・何というまっすぐな心なのでしょう・・。汚れている私などは、純粋すぎて、恥ずかしくなります。
・しかし、主イエス・キリストは・・そのまっすぐな信仰に驚き・・わざわざ、そこについて来た群衆の方に向かって、こう言われたのでした。
・「あなたがたに言いますが・・わたしは、神の祝福を受け継ぎ、真の信仰ということを証しなければならない、イスラエルの人々のうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
・勿論、この主イエス・キリストの御言葉は、当時そこにいた群衆に、そして、同時に、今、ここにいて、礼拝している現代の私たちに向かって、語りかけておられる御言葉であることは言うまでもありません。
・この人の信仰は・・神秘的な現象とか・・実利的な現象を経験すると、その信仰が強まって・・ハレルヤ!と叫ぶけれども・・そういう現象をしばらく見ないと・・その信仰がしぼんでしまう・・そういう信仰では
ありません。
・この人は、私たちと同じ様に、危機的状態に置かれた時、主の御手が差し伸べられる、その経験をするとその信仰が励まされでしょう。しかし、彼は、そのような経験が、たとえ、なくとも、神への信頼は揺るがない、そういう信仰なのです。
・彼は、・・「恐れるな。わたしはあなたの神だから。」と、聞けば、「そうだ、恐れることはない」と確信し、「私はあなたを愛している」と聞けば、「ああ、私は主に愛されている者だ」と確信してゆく信仰です。
・また、彼は、「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる人は死んでも生きるのです。」と聞けば、「この主イエス・キリストのところに、よみがえりのいのちがある。この方に繋がっている者は死んでも、尚、生きる。私たちを、そういう一人一人にしてくださるのだ。」と確信するに違いありません。
・何と幸いな信仰・・何と幸いな人でしょう・・。私たちもこの信仰に近づいてゆきたい、そう思います。
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