家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。

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今回は、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」(マルコ12:10)からのメッセージです。
群衆に熱狂的に迎えられてイエスはエルサレムに入場することとなる。入場後にまず、イエスは宮きよめをする。イエスに敵対心を抱いていた当時の指導者たちとの衝突はますます明白になって行く。イエスはたとえを用いて自分の十字架での死を暗示していく。イエスの死と復活こそが、新しい時代、教会の時代が来ることを暗示する、それが今回のメッセージのテーマになっています。まず、マルコ11章15ー18節を読んでいただきたい。
エルサレムの神殿での礼拝は、犠牲として動物をささげることが中心であった。異邦人の庭と呼ばれた外庭には、いけにえ用の動物が売られ、神殿税や献金を納めるための両替人の台も多く置かれていたようである。「イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、宮を通り抜けて器具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。と書いてあるのではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(15ー17) 神殿は祈りの家であるべきである。この言葉はイザヤ書56章7節からの引用である。神の恵みは神に仕えるすべての者に及ぶことが約束されていて、とても美しい箇所である。興味ある方はイザヤ書56:4-8節を開いて読んでほしい。しかし、現実には異邦人の庭では、商売人があふれ、神殿の一部が、人々から不当な利益を得る場所になってしまったことは問題である。イエスの宮きよめは、ユダヤ人だけではなく、異邦人たちも含めて礼拝をするために、その本来の目的の回復を求めた行為であることを覚えて行きたい。
次に、当時の指導者たちが、イエスに、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」との問いかけが起こってくる。マルコ11章27-33節を読んでいただきたい。これらのこととは、宮きよめの出来事を直接的には指している。祭司長、律法学者、長老たちとは、当時の国会議員(サンヘドリン)の構成メンバーであるが、そのような当時の指導者たちにイエスは反対に質問をする。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」と。聖書を続けて読んでみよう。彼らの答えは実に人間的である。「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。・・・というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、わかりません。と言った。」とある。イエスも彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」とお答えになっている。イエスは、彼らが、真理を求めてこのような質問をしたのではないことを見抜かれている。当時の指導者たちは、自分たちの地位の安泰のみを考えている。彼らは、真理をすなおに認めようとはしない。救い主が目の前にいても、受け入れることよりも排除することに関心をもっている。
そのような彼らに、イエスはたとえを用いて話し始められる。12章1-12節を読んでいただきたい。ある人がぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出かけたたとえである。ぶどう園とは、イスラエルを指している。ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、この方はしもべを農夫たちのところに遣わす。しもべとは、旧約の預言者とバプテスマのヨハネを指している。この農夫たちは、しもべの頭をなぐり、はずかしめる。また、多くのしもべを袋だたきにしたり、殺したりしたとある。多くの預言者やバプテスマのヨハネもそのような扱いを受けたことをお気づきになったと思う。それでも、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、私の息子なら、敬ってくれるだろう。と言って、最後にその息子を遣わした。」(6)と語られる。この農夫たちは、残念ながら、この息子をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てたとある。イエスは続けて語る。「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」(9)とある。これはたとえであって、たとえとして読むべきであるが、イエスが十字架でなくなること、エルサレムが紀元70年に滅亡することが、このたとえに含まれている。
さて、今日のテーマ「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」が続いて、語られていく。ここには、イエスの死と復活が暗示されている。この聖句は、詩篇118編22,23節の言葉の引用であるが、見捨てた石とは、その時の人たちにとって無価値と思われた石であり、礎の石とは、建築物の土台となる基礎石のことで、極めて重要な石を指し示している。イエスこそ、ユダヤ人たちから見捨てられ、殺されてしまうが、復活され、教会の土台となり、教会の真ん中に存在してくださる方である。礼拝のただ中に、信仰者の群れの中に、イエスが臨在される。私たちクリスチャンにとって、イエスこそ、私たちの人生の礎の石となられたことをみなさんと覚えて感謝していきたいと思う。
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