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どんなことでも、神にはできるのです。

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今回は、「どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10: 27) からのメッセージです。人は自分を救うことはできないが、ただ、神のみが人を救うことができる。そのメッセージがこの言葉に隠れています。マルコ10章45節には、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とある。贖いの代価とは、奴隷を自由にするために支払う身代金のことを意味する。イエスが、贖いの代価、つまり罪の奴隷となっている人間を解放して、神のものとするために支払う身代金を支払ってくださること、それが十字架での犠牲であることが明らかにされている。イエスこそ、私を、そしてあなたを、救うことのできる方であることを今回は語って行きたいと思っています。マルコ10章13-31節を読んでいただきたい。ここには3つの関連する内容が書かれている。
第一に、人々はイエスにさわっていただこうとして、子供たちをイエスの所に連れて来た出来事です。手をおいて祝福していただきたいとの願いがあって取った行動です。そのような彼らをしかりつけた弟子たちに、イエスが答えられる。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。・・子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(14,15節)と。子どもたちのように神の国を受け入れる者とは、自分の弱さや頼りなさを認めることのできる者である。それゆえに神に信頼し、神が与えようとしている十字架の贖いを受けいれることができる人達のことです。自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさを認めて、神を信頼する者が神の国に入ることができることが語られています。そのことが子どもたちの姿から私たちは学ぶことができる。
第二に、ひとりのお金持ちとイエスとの会話です。このお金持ちは謙遜な姿で、イエスの前にひざまずいて、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいですか。」と尋ねる(17節)。イエスは、戒めはあなたもよく知っているはずですと、モーセの十戒を引用して答えます。このお金持ちは、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」(20節)と即座に答える。旧約の律法をよくご存じで、この方は立派な人生を歩んで来られた方であることが理解できる。それゆえ、謙遜に見えても横柄な態度を取っている。さて、この方をルカはある役人と表現して(ルカ18:18)、ユダヤ教会の役員か当時の国会議員(サンヘドリンの議員)であったことを暗示しています。しかし、イエスはその人をいつくしんで言われる。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21節)と。なんと驚くべき言葉であろうかと私は思う。持ち物を売り払う、貧しい人たちに与える、実に大きな犠牲を伴うチャレンジである。それでは、この方の抱える問題は何であろうか。旧約聖書を知っていても、旧約聖書があかしするイエスに従おうとはしないこと。そして、自分の富や地位を手放すことができないことである。「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16:13)とのイエスの言葉を思い出す。しかし、決して誤解しないでほしい。自分の財産を売って、だれかに、または教会にささげたとしても、それが救いの道ではない。この金持ちが、財産に執着していることは神の戒めに反することであり、神への信頼を妨げていることに気付く必要があるとのイエスのチャレンジである。
第三に、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」との言葉に驚く弟子たちとイエスの会話です。当時のユダや人の理解は、富は神様からの祝福であると考えていたようです。彼らの理解とは真逆の表現をイエスは語り出す。イエスは続けて語ります。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(25節)と。弟子たちはますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(26節)と。誰が考えても、らくだは針の穴を通らない。それは、不可能なことで、それなら、お金持ちは誰一人救われなくなってしまう。弟子たちがそのように考えるのは納得できる。しかしイエスの指摘は、お金持ちは貧しい人達のように、救いの必要を切実に感じることが少ないので、救われることは困難であるとの指摘である。確かに、お金や物質に人生を支配されている方は救いの必要性をあまり感じない。今の日本もそのような方が多いのではと私は思う。しかし、状況はどうであれ、「それは人にはできないことですが、神はそうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」との今日のテーマが私たちの心に響いてくる。お金持ちでも、いや貧しくとも、どんな人でも神は救うことができる。神の愛はすべての人に注がれている。救いをお与えになるのは神のみである。「どんなことでも、神にはできるのです」との、この言葉を握って、私たちの家族、また友人のために祈っていこうではないか。
先週火曜日に、教団の責任役員会がズームを利用して持たれた。新型コロナウィルス感染の予防のため、集まることをやめて、自宅で役員会に参加することとなった。その際、ある方がわたしたちの教団に属する困っている教会や牧師家族を支えてほしいと多額の献金をされ、何人かの家族と教会に配布されたことが報告された。このような方が教団に与えられていることは本当に感謝なことである。旧約聖書の律法の中でたいせつな戒めはどれですか、とのひとりの律法学者の問いに、イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:37-39)とお答えになっている。いろいろなしがらみから私たちは自由にされて、神を愛し、隣人を愛する人生をおくりたいと心から願っています。
さあ、皆さんはどうであろうか。イエスが十字架につき、あなたの罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださっている。感謝をもってイエスを救い主として信じて行こうではないか。神はあなたの心をも変えることのできる方である。イエスの与える愛の中にとどまり、神と隣人を愛する人生を選んで行こうではないか。
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第一に、人々はイエスにさわっていただこうとして、子供たちをイエスの所に連れて来た出来事です。手をおいて祝福していただきたいとの願いがあって取った行動です。そのような彼らをしかりつけた弟子たちに、イエスが答えられる。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。・・子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(14,15節)と。子どもたちのように神の国を受け入れる者とは、自分の弱さや頼りなさを認めることのできる者である。それゆえに神に信頼し、神が与えようとしている十字架の贖いを受けいれることができる人達のことです。自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさを認めて、神を信頼する者が神の国に入ることができることが語られています。そのことが子どもたちの姿から私たちは学ぶことができる。
第二に、ひとりのお金持ちとイエスとの会話です。このお金持ちは謙遜な姿で、イエスの前にひざまずいて、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいですか。」と尋ねる(17節)。イエスは、戒めはあなたもよく知っているはずですと、モーセの十戒を引用して答えます。このお金持ちは、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」(20節)と即座に答える。旧約の律法をよくご存じで、この方は立派な人生を歩んで来られた方であることが理解できる。それゆえ、謙遜に見えても横柄な態度を取っている。さて、この方をルカはある役人と表現して(ルカ18:18)、ユダヤ教会の役員か当時の国会議員(サンヘドリンの議員)であったことを暗示しています。しかし、イエスはその人をいつくしんで言われる。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21節)と。なんと驚くべき言葉であろうかと私は思う。持ち物を売り払う、貧しい人たちに与える、実に大きな犠牲を伴うチャレンジである。それでは、この方の抱える問題は何であろうか。旧約聖書を知っていても、旧約聖書があかしするイエスに従おうとはしないこと。そして、自分の富や地位を手放すことができないことである。「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16:13)とのイエスの言葉を思い出す。しかし、決して誤解しないでほしい。自分の財産を売って、だれかに、または教会にささげたとしても、それが救いの道ではない。この金持ちが、財産に執着していることは神の戒めに反することであり、神への信頼を妨げていることに気付く必要があるとのイエスのチャレンジである。
第三に、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」との言葉に驚く弟子たちとイエスの会話です。当時のユダや人の理解は、富は神様からの祝福であると考えていたようです。彼らの理解とは真逆の表現をイエスは語り出す。イエスは続けて語ります。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(25節)と。弟子たちはますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(26節)と。誰が考えても、らくだは針の穴を通らない。それは、不可能なことで、それなら、お金持ちは誰一人救われなくなってしまう。弟子たちがそのように考えるのは納得できる。しかしイエスの指摘は、お金持ちは貧しい人達のように、救いの必要を切実に感じることが少ないので、救われることは困難であるとの指摘である。確かに、お金や物質に人生を支配されている方は救いの必要性をあまり感じない。今の日本もそのような方が多いのではと私は思う。しかし、状況はどうであれ、「それは人にはできないことですが、神はそうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」との今日のテーマが私たちの心に響いてくる。お金持ちでも、いや貧しくとも、どんな人でも神は救うことができる。神の愛はすべての人に注がれている。救いをお与えになるのは神のみである。「どんなことでも、神にはできるのです」との、この言葉を握って、私たちの家族、また友人のために祈っていこうではないか。
先週火曜日に、教団の責任役員会がズームを利用して持たれた。新型コロナウィルス感染の予防のため、集まることをやめて、自宅で役員会に参加することとなった。その際、ある方がわたしたちの教団に属する困っている教会や牧師家族を支えてほしいと多額の献金をされ、何人かの家族と教会に配布されたことが報告された。このような方が教団に与えられていることは本当に感謝なことである。旧約聖書の律法の中でたいせつな戒めはどれですか、とのひとりの律法学者の問いに、イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:37-39)とお答えになっている。いろいろなしがらみから私たちは自由にされて、神を愛し、隣人を愛する人生をおくりたいと心から願っています。
さあ、皆さんはどうであろうか。イエスが十字架につき、あなたの罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださっている。感謝をもってイエスを救い主として信じて行こうではないか。神はあなたの心をも変えることのできる方である。イエスの与える愛の中にとどまり、神と隣人を愛する人生を選んで行こうではないか。
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