【海軍省 練習兵用 歴史教科書】25. 尊王思想 大楠公

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(2)諸學の興隆と尊皇思想の勃興 皇室の御好學 江戸時代に於ける学問興隆の中心をなしたものは、畏くも皇室の御好学であらせられた。 即ち第107代後陽成(ごようぜい)天皇、第108代後水尾(ごみずのお)天皇は御共に和漢(わかん)の學に極めて御造詣(ごぞうけい)深く、幾多の書籍を勅版(ちょくはん)せしめ給うて奬勵(しょうれい)に努めさせられ、第110代後光明(ごこうみょう)天皇もまた御日課を定めて御勉学に励み給ひ、公卿(くげ)の間にも傳統ある学問が復興して、やがて起こる復古精神・尊皇思想の源泉となった。 学問の興隆 次いで幕府もまた施政の方針に文武兼修(ぶんぶけんしゅう)を置いて学問の奨励に努めたので、幕府の保護により儒学がまず興り、次いで国學が盛となり、また国史の考究も進んでこれらはいづれも国民の尊皇思想を喚起(かんき)し、延いて皇政復古の思想的根拠となった。 儒学の興隆と大義名分 江戸時代に興隆した学問の諸流派の内で、その本流をなしたものは儒学のうちの朱子学であった。この学派は宋の朱子がこれを興して以来、支那に於いても名分(めいぶん)を正し、王覇(おうは)の別を明らかにする学風をなしていたので、我が国でもこの朱子学が大義名分の思想を高めるのに大いに貢献するところがあった。 就中(なかんずく)山崎闇斎(やまざきあんさい)・山鹿素行(やまがそこう)はともに我が國體の精華を説いて大いに尊皇愛国の精神を鼓吹(こすい)したので、儒学は早くも江戸時代尊皇思想の発展と國體観念昂揚の固い基礎を定めることとなった。 やがて寶暦(ほうれき)・明和(めいわ)の頃に至り、竹内式部(たけうちしきぶ)・山縣大貳(やまがたたいに)が出て、我が國體の本義に基づき強く尊皇斥覇(そんのうせきは)を論じて大義名分を説き、遂に幕府に罰せられたが、これは實に江戸時代に於ける勤皇運動の最初を飾るものであった。 古道の闡明(せんめい)と國學 朱子学と共に尊皇思想の興起に深い関係のあったのは國學である。 既に元禄(げんろく)の頃から古語(こご)・古文(こぶん)の研究に出発し、我が國独自の古道(こどう)の闡明(せんめい)を目的として興った國學は、賀茂真淵に至って一段の発達を見、儒学に対抗して古道こそ、我が國肇国(ちょうこく)以来の根本精神であることを明らかにし、延いてこの古道が自然に行われた我が上代への復帰を理想として説いた。 この国学を大成したのが門人の本居宣長(もとおりのりなが)である。 國學の発達と尊皇思想 即ち宣長は古事記伝その他の著作によって皇祖の神勅に基づく我が國體の淵源と、肇国以来我が國に傳わる古道の探求に偉大な足跡(そくせき)を残した。 その學統(がくとう)は廣く全国に及んだが、中にも平田篤胤(ひらたあつたね)は國學の主張を更に進めて、萬國に比類ない皇室を上(かみ)に戴く我が國こそ、世界に冠絶(かんぜつ)する秀(すぐ)れた國であることを強く唱へて、大いに尊皇愛国の精神を鼓舞した。 その熱烈な思想と論策は幕末の民心多大の感化を與へ、皇政復古の大業に與(あづか)って大なる功があった。 大日本史の編纂と水戸学 我が国史の研究・編纂の事業は江戸時代の初期から起こり、本朝通鑑(ほんちょうつがん)が幕府の命によって撰ばれたが、水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が大義名分を明らかにしようとして編纂を企てた大日本史は、後世の勤皇の志士を感奮興起(かんぷんこうき)せしめることが實に大であった。 この国史の編纂は水戸の代々の藩主に承け継がれ、実に二百五十年の星霜(せいそう)を積んで明治の末期になって漸く完結した大事業であったが、水戸学は實にこの大事業の間に発達した尊皇愛國の一學派であって、皇室の尊厳と我が國體の萬國に冠絶する所以を明らかにして、我が士民に多大の影響を與へた。 幕末に至り藩主斉昭(なりあき)の下に藤田一幽谷(ふじたいっこく)・同東湖(とうこ)・會澤正志齋(あいづせいしさい)等が出て、大いに尊皇攘夷の論を唱へ、水戸学の精華を発揮した。 太平記と楠公崇拝思想 またこの時代に太平記(たいへいき)が廣く国民の間に愛読せられるようになったことも、尊皇思想を喚起(かんき)する上に於いて大きな貢献をなした。 即ち建武中興から吉野時代にかけての御苦難に満ちた國體御宣揚の御偉業と、勤皇諸将の盡(尽)忠報國(じんちゅうほうこく)の事蹟とは讀(読)むものとして悲憤慷慨(ひふんこうがい)せしめ、幕末勤皇の志士として有名な高山彦九郎(たかやまひこくろう)・蒲生君平(がもうくんぺい)等はいづれも幼時太平記を耽読(たんどく)し、長じて諸国を周遊し、或は尊皇の大義を説き、或は山陵の荒廃を慨(なげ)いて国民の間に尊皇愛国の精神を鼓吹(こすい)した。それとともに楠公(くすのきこう)崇拝の思想もこの時代に大いに高まり、このこともまた勤皇忠誠の情を振起せしめた。 日本外史と尊皇精神 また幕末頼山陽(らいさんよう)は深く時勢を慨嘆(がいたん)し、盡忠報國(じんちゅうほうこく)の精神を鼓吹するため日本外史を著(あらわ)したが、その論述は楠木・新田諸氏の忠烈の事蹟を詳細に記し、文章もまた極めて流麗であったので廣く世に行われ、尊皇の思想を鼓舞することが頗(すこぶ)る大であった。 国史の研究と國體の自覚 かくて国史の研究とその論述は廣く国民の間に我が國體の尊厳を知らしめて尊皇愛国の思想を涵養(かんよう)し、儒学・國學などと相俟(あいま)ってやがて来るべき皇政復古の思想的懇書を固めたのである。 國體観念の高調 夫れ中国の水土、万邦に卓爾(たくじ)し、而して人物は八紘に精秀なり。 故に神明の洋々たる、聖治の緜緜(めんめん)たる。煥乎(かんこ)たる文物、赫乎(かくこ)たる武徳、 以て天壌に比すべきなり (山鹿素行「中朝事實」) 古道の闡明(せんめい) そも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地の自(おのづか)らなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも神祖(かむろぎ)伊邪那岐大神(イザナギノミコト)伊邪那美大神(イザナミノミコト)の始めたまひて、天照大神(あまてらすおおみかみ)の受けたまひたもちたまひ、傳へ賜ふ道なり。 故に是をもって神の道とは申すぞかし。 (中略) いにしへの大御代(おおみよ)には下が下まで、ただ天皇の大御心を心として、ひたぶるに大命(おおみこと)をかしこみゐやまひまつろひて、おのおのも祖神(おやがみ)を齋(いつき)祭りつつ、穏(おだ)しく楽しく世をわたらふほかなかりしかば、今はた其の道といひて、別に數(おしえ)を受けて、行ふべき技はありなむや。 (本居宣長「直毘靈(霊)なおびのみたま」)

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