渤海の入貢

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(4)国威の発展 東北経営 大化の改新後、国力の充実に伴って 国威はいよいよ発展し、国の内外に輝くこととなった。 先ず圏内に於いては東北の開拓がある。即ち第37代齊明天皇(さいめいてんのう)の御代、阿部比羅夫(あべのひらふ)は 水軍を率いて 秋田・津軽に進み、渡島(わたりじま)の蝦夷(えぞ)をも帰服せしめ、更に肅愼(みしはせ)に遠征して 皇威を遠く輝かせたが、その後もこの地方の経営は著しく進み、第43代聖武天皇(しょうむてんのう)の御代には 陸奥に多賀城(たがじょう)、出羽に秋田城が築かれて大いに開拓が進められた。 蝦夷の帰服と撫育 次いで 第50代桓武天皇(かんむてんのう)の御代、坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)は よく恩威(おんい)を並び施して 蝦夷を屈服せしめ、膽澤(いざわ)・志波(しは)の両城を築いて東北経営の根拠としたので、御歴代の皇化普及の御苦心は 遂に実を結んで、東北経営もほぼこの時代を以て完成した。 この間、帰順した蝦夷に対しては これを全国に配置して撫育(ぶいく)を加え、やがてこれらは全く国民のうちに融合して皇恩の広大無辺(こうだいむへん)を仰ぎ奉った。 南島の入朝 また西南方面においても推古天皇の御代以来、元明天皇の御代にかけて、掖玖(やく)(屋久島)・外褹(たね)(種子島)・奄美(大島)・度感(どこ)(徳之島)・信覚(しがき)(石垣島)・球美(くみ)(久米島)等の九州以南諸島の住民が皇化を慕って続々入朝し、皇威は琉球にまで及ぶようになった。 また九州南部の隼人(はやと)も 第44代元正天皇(げんしょうてんのう)の御代には全く帰服した。 かくて新政の大精神に基づき国内統一の実が挙げられるとともに、国威は更に海外に輝いたのである。 半島の離反 當時大陸では隋が既に亡んで、これに代わって唐が興り、朝鮮半島では新羅の勢がますます強くなって、唐の力を借り、高句麗・百済を滅ぼして半島を統一しようとする形勢にあった。 齊明天皇(さいめいてんのう)は百済救済のため、皇太子中大兄皇子とともに御親(みずか)ら九州へ軍を進め給うたが、程なく同地で崩御(ほうぎょ)あらせられた。 皇太子は天皇の御意志を継いで 大軍を半島にお遣わしになったが、時に利あらず、百済・高句麗が相次いで亡んでからは、専ら国力の充実に邁進せられることとなった。 遣唐使の派遣 しかし大陸との交通はこれによって衰えることなく、国運の隆昌(りゅうしょう)とともにますます隆(さか)えて行った。 即ち 朝廷は国威の宣揚と文化摂取(せっしゅ)のため、しばしば遣唐使(けんとうし)を派遣し給ひ、当時は航海の危険が極めて大であったにもかかわらず、使節は敢然(かんぜん) 東支那海(ひがししなかい)を乗り切って使命を全うした。 国民もまた争って大陸に渡航し、文化の摂取と知識の吸収に努め、旺盛な海外発展の精神を遺憾なく発揮した。 渤海(ぼっかい)の入貢 かくて聖武天皇(しょうむてんのう)の御代には、当時、朝鮮北部・満州・沿海州に亙(わた)って建国した渤海(ぼっかい)も、皇化を慕ってしばしば入貢するようになり、我が国からも使節が派遣せられた。 これらは当時に於ける国威の発展と国民の海外発展の気運が、いかに旺盛であったかを示すものである。

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