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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】14. 鎌倉幕府の成立

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(2)武士の勃興

国民皆兵の制度

我が国は肇国以来、天皇御親率(ごしんそつ)の下に、国民皆兵を建軍の本義とする。

古く氏族制度時代には 大伴・物部の二氏が 同族及び部民を率いて 世々郡司を司どり、ことある毎に 天皇は御親ら軍を率いて出陣し給ひ、各氏族は その部民を率いて軍務に服し、忠誠を盡(つ)くし奉った。

即ち 神武天皇の御東征以来、神武を発揮して皇威を輝かし給うた御歴代の御聖業には、国民こぞって身命を捧げ、これを翼賛(よくさん)し奉ったのである。

兵制の推移

後、大寶令によって徴兵制度が施行され、国民皆兵の制度はますますその實が挙げられることとなったが、やがて平安初期になり 国内統一の御事業が概ね完成せられてからは、専ら東国の武技に秀でたものだけが健皃兵(こんでんへい)・随身兵(ずいじんへい)として宮門を護衛することとなり、ここにはじめて武事を専らとするものの発生を見た。

地方武士の発生

その後、藤原氏擅権(せんけん)の時代を通じて 律令制度が次第に弛(ゆる)み、権門勢家(けんもんせいか)が 荘園として多くの土地を私有するに及び、藤原氏一門の栄華文弱(えいがぶんじゃく)がこれに伴って社会の秩序は次第に乱れ、特に地方は騒然(そうぜん)たる状態となった。

ここに於て地方の豪族は自衛のため私兵を養い、武技を練って自ら秩序の維持に任じ、やがて次第に勢力を得て 地方に台頭してきた。

これが地方武士の発生である。

源平二氏の興起

かくて平安末期になり、これら武装した豪族のうちから その統領(とうりょう)して大なる力を有するものが次第に現れてきた。

これらは多く臣籍(しんせき)に降下せられた皇族、或いは中央の貴族であって、藤原氏が政治を私して権勢を擅(ほしいまま)にしたため、中央に志を得ないこれらの貴族は 地方に移住し、家名を貴ぶ地方武士に推戴(すいたい)せられて その統領となったものであった。

その中でももっとも著しく現れたものが、桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫高望(たかもち)王からでた平氏と、清和天皇の御孫経基(つねもと)王からでた源氏とであった。

二氏の対立と平氏の滅亡

源氏は古くからたびたび東国の鎮定にその武名を轟(とどろ)かせて 勢力を東国に扶植(ふしょく)したのに対し、平氏は瀬戸内海の海賊を討って西国に勢力を擴張(かくちょう)し、やがて二氏は地方の治安の維持に成功して中央に進出し、遂に両者の勢力は対立することとなった。

その後、保元(ほげん)・平治(へいぢ)の両乱によって 平氏はその勢力が極めて盛となり、清盛(きよもり)に至って 平家一門はすべて高位高官に登り、遂に藤原氏に代わって 一時政治の実権を握った。

しかし清盛の横暴が募るに及んで 諸国の源氏は各地に蜂起(ほうき)し、源頼朝(みなものとのよりとも)はこれに応じて鎌倉に兵を挙げ、遂に寿永四年(皇紀1845年)、長門(ながと)の壇浦(だんのうら)に全くこれを滅した。

鎌倉幕府の成立

頼朝は平氏滅亡の後もなほ鎌倉に留まって 士風剛健な東国に勢力を養ひ、建久(けんきゅう)3年(皇紀1852年)、征夷大将軍に任ぜられて 幕府を鎌倉に開いた。

かくて頼朝は武力を以て県内の秩序を恢復(かいふく)し、武士道を奨励してこれに基づく質実剛園(しつじつごうけん)な政治を行ったから、藤原氏の専横(せんおう)以来、悪政と争乱に苦しんだ地方武士はみな幕府の親政に服し、政治の実権は幕府に移り、遂に武家政治の基礎が定められることとなったのである。

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(2)武士の勃興

国民皆兵の制度

我が国は肇国以来、天皇御親率(ごしんそつ)の下に、国民皆兵を建軍の本義とする。

古く氏族制度時代には 大伴・物部の二氏が 同族及び部民を率いて 世々郡司を司どり、ことある毎に 天皇は御親ら軍を率いて出陣し給ひ、各氏族は その部民を率いて軍務に服し、忠誠を盡(つ)くし奉った。

即ち 神武天皇の御東征以来、神武を発揮して皇威を輝かし給うた御歴代の御聖業には、国民こぞって身命を捧げ、これを翼賛(よくさん)し奉ったのである。

兵制の推移

後、大寶令によって徴兵制度が施行され、国民皆兵の制度はますますその實が挙げられることとなったが、やがて平安初期になり 国内統一の御事業が概ね完成せられてからは、専ら東国の武技に秀でたものだけが健皃兵(こんでんへい)・随身兵(ずいじんへい)として宮門を護衛することとなり、ここにはじめて武事を専らとするものの発生を見た。

地方武士の発生

その後、藤原氏擅権(せんけん)の時代を通じて 律令制度が次第に弛(ゆる)み、権門勢家(けんもんせいか)が 荘園として多くの土地を私有するに及び、藤原氏一門の栄華文弱(えいがぶんじゃく)がこれに伴って社会の秩序は次第に乱れ、特に地方は騒然(そうぜん)たる状態となった。

ここに於て地方の豪族は自衛のため私兵を養い、武技を練って自ら秩序の維持に任じ、やがて次第に勢力を得て 地方に台頭してきた。

これが地方武士の発生である。

源平二氏の興起

かくて平安末期になり、これら武装した豪族のうちから その統領(とうりょう)して大なる力を有するものが次第に現れてきた。

これらは多く臣籍(しんせき)に降下せられた皇族、或いは中央の貴族であって、藤原氏が政治を私して権勢を擅(ほしいまま)にしたため、中央に志を得ないこれらの貴族は 地方に移住し、家名を貴ぶ地方武士に推戴(すいたい)せられて その統領となったものであった。

その中でももっとも著しく現れたものが、桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫高望(たかもち)王からでた平氏と、清和天皇の御孫経基(つねもと)王からでた源氏とであった。

二氏の対立と平氏の滅亡

源氏は古くからたびたび東国の鎮定にその武名を轟(とどろ)かせて 勢力を東国に扶植(ふしょく)したのに対し、平氏は瀬戸内海の海賊を討って西国に勢力を擴張(かくちょう)し、やがて二氏は地方の治安の維持に成功して中央に進出し、遂に両者の勢力は対立することとなった。

その後、保元(ほげん)・平治(へいぢ)の両乱によって 平氏はその勢力が極めて盛となり、清盛(きよもり)に至って 平家一門はすべて高位高官に登り、遂に藤原氏に代わって 一時政治の実権を握った。

しかし清盛の横暴が募るに及んで 諸国の源氏は各地に蜂起(ほうき)し、源頼朝(みなものとのよりとも)はこれに応じて鎌倉に兵を挙げ、遂に寿永四年(皇紀1845年)、長門(ながと)の壇浦(だんのうら)に全くこれを滅した。

鎌倉幕府の成立

頼朝は平氏滅亡の後もなほ鎌倉に留まって 士風剛健な東国に勢力を養ひ、建久(けんきゅう)3年(皇紀1852年)、征夷大将軍に任ぜられて 幕府を鎌倉に開いた。

かくて頼朝は武力を以て県内の秩序を恢復(かいふく)し、武士道を奨励してこれに基づく質実剛園(しつじつごうけん)な政治を行ったから、藤原氏の専横(せんおう)以来、悪政と争乱に苦しんだ地方武士はみな幕府の親政に服し、政治の実権は幕府に移り、遂に武家政治の基礎が定められることとなったのである。

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