【海軍省 練習兵用 歴史教科書】22. 秀吉の唐入りと朱印船貿易

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(3)對外政策とその推移 新時代の海外発展 我が吉野時代から戦国時代にかけて次第に隆盛に赴(おもむ)いたわが国民の海外雄飛の気運は、ヨーロッパ人の来航以来、国民の世界知識の発展と国家的自覚の昂揚とに伴って著しく興隆(こうりゅう)し、我が商船は遠く南洋諸島及び東部印度支那半島にまで進出するようになった。 秀吉はこのやうな時代に国内を統一した。 而して當時の潑刺たる海外発展の気運は、遂に秀吉をして空前の雄圖(ゆうと)を決行せしめるとともに、国民の海外進出もまたその奨励と統制を得て空前の活況を呈することとなった。 秀吉の雄圖 即ちこれよりさき信長は、明及び高麗の滅後半島に興った朝鮮と通商貿易を企圖して不成功に終わったが、秀吉はその後を承け更に雄大な意図を以て明・朝鮮のみならず、遠く臺灣(たいわん)・呂宋(るそん)・印度に対してもことごとく我が国への入貢を促した。 このことは實に元寇以来の我が国民の海外発展の気運が、最高調に達したものであったということができる。 而して明・朝鮮がわが要求に応じなかったため、秀吉は遂に討明・征韓の大軍を起こしたが、その雄図は後陽成(ごようせい)天皇を北京に奉じ、秀吉自身は寧波(にんぽー)に於いて支那全国を統一しようとする實に雄大なものであった。 東邦発展の基礎 この秀吉の大陸経営の一大壮挙は我が水軍の不振と秀吉の薨去(こうきょ)とによって成功するまでには至らなかったが、大陸進出に一歩を印(いん)したことは、そのほかの対外政策とともに我が国民の海外発展の気運をますます旺盛ならしめた。 殊に秀吉の雄図が、我が国を盟主として東亜の諸国を一丸とする共栄圏を建設しようとする遠大な理想に基づくものであったことからして、秀吉がその後大いに南方諸国との通商貿易の振興を図り、国民の南方発展の基礎を築いたことは、当時の内外情勢に鑑(かんが)みて頗(すこぶ)る大きな収穫であった。 朱印船貿易の奨励 即ち秀吉は国民の海外奨励のため文禄元年(皇紀2252年)、京都・堺・長崎の富商8人を選び、その商船に貿易公許の証たる朱印状を与へて外国貿易を特許する方法をとり、ここに我が商船は秀吉の保護を得て遠く呂宋・印度及び東部印度支那半島の沿岸にまで進出し、盛に活躍することとなった。 これを朱印船といひ、その活動は後に徳川家康の時代における朱印船貿易大発展の基礎となったものである。 家康の対外政策 家康は内治外交ともに概ね秀吉の政策を受け継いだが、その対外政策は極めて堅實な手段を選び、安南(あんなん)・太泥(ぱたに)・呂宋(るそん)・東埔寨(かんぽざい?)などの南方諸国に對してはこれと和親を計って通商貿易の振興に努めた。 また家康は久しく絶えてゐた明・朝鮮との通交を恢復することに努め、對島の宗(そう)氏の斡旋(あっせん)によって先づ朝鮮との修好復舊(ふっきゅう)に成功し、明との間には遂に修交が結ばれなかったが、商船の往来は次第に活潑に行はれるやうになり、やがて明が亡んで淸(しん)が興ってから後も、日清貿易は長く平和のうちに続けられた。 西洋諸国との通商 更に家康は廣く西洋諸国との通商をも求めてポルトガル・イスパニヤ兩國との交易を奬勵し、また直接メキシコ(濃毘數般 のびすばん)との通商を開かうとして慶長(けいちょう)15年(皇紀2270年)、京都の商人田中勝助(たなかしょうすけ)をして同地に渡航せしめた。 ヨーロッパに於ける新興のイギリス・オランダ兩國との交易を始めたのもこの時代のことである。 世界情勢の變化 當時ヨーロッパに於いては、長く世界の制海権を握って植民政策に成功し、富裕を極めたイスパニア・ポルトガル兩國が漸く衰へ、これに代わってイギリス・オランダ兩國が新興勢力として新たに世界に雄飛しつつあった。 (い)オランダの興起 オランダははじめイスパニヤの属領であって、本國イスパニヤ商人の舶来した東亜の物資を北欧に売って勝利を得てゐたが、新教を奉じて本國と信仰を異にした関係から、我が天正(てんしょう)9年(皇紀2241)、遂に独立を宣言した。 而して独立後数年にしてイスパニヤの無敵艦隊をイギリスと聯合(れんごう)して破るに及び、ここに西・葡兩國全く壓倒し、慶長7年(皇紀2262)には東印度會社を起こして東亜発展の基礎を確立し、南洋諸島を次第に侵略してジャバのバタビヤ(ジャカルタ)に根據を定め、盛に太平洋經略を行ひはじめた。 (ろ)イギリスの海外雄飛 またイギリスもその海外雄飛は先に我が戰國末期、その國民が多く海賊となって西・葡兩國の植民地・商船を大いに荒掠(こうりゃく)した時にはじまり、やがて我が後陽成(ごようせい)天皇の天正16年(皇紀2248)、イスパニヤの無敵艦隊をイギリス海峡に破ってからは、恰(あたか)も我が元寇の撃攘後のやうに國民の海外発展の気運は勃然(ぼつぜん)として起り、オランダと協力しつつイスパニヤ・ポルトガル両国の制海権を奪って植民地を併せ、早くも慶長5年(皇紀2260年)には東印度會社を設立して、マドラス・ボンベイなどに據(よ)り、印度の内亂(ないらん)に乗じてその經略を努めるとともに、次第に侵略の魔手を東亜に伸ばし始めつつあった。 英・蘭兩國の東亜進出 かくてイギリス・オランダ兩國は轡(くつわ)を並べて東亜に進出することとなったが、兩國の植民政策は西・葡兩國を凌(しの)いで更に巧妙を極め、西・葡兩國の海外貿易が王室独占の機構によって営まれ、主として武力行使による威嚇によって植民地經営に當ったのに反し、英・蘭兩國は東印度會社に特権を與へ、その活動により、資本の力を以て植民地を経営せしめ貿易を行はしめたので、兩國は忽(たちまち)ちにして東亜經略に多大の成功を収め、ここに東亜の形勢は一變(いっぺん)して我が国はこれらの兩國と新たに通交を開始することとなったのである。 英蘭兩國との通交 即ち慶長5年(皇紀2260)、東亜に派遣せられたオランダ商船がたまたま豊後(ぶんご)に漂着(ひょうちゃく)した時、家康はその乗組員たるオランダ人ヤン=ヨーステン、イギリス人ウイリヤム=アダムス(三浦安針 みうらあんじん)を江戸に招き、外交顧問として滞留せしめてこれに海外の情勢を聞いたが、これを機縁(きえん)としてやがて慶長14年(2269)にはオランダと、同18年(2273)にはイギリスと相次いで修好を結び、平戸(ひらと)に兩國の商館が設けられた。 朱印船貿易の盛況 かくて東西諸國の商戦は多く我が港に集り、我が商人の海外雄飛の気運もまた大いに刺戟せられた。 このやうな趨勢(すうせい)に對して家康は國民の海外貿易に大なる保護を與へ、秀吉のはじめた朱印船貿易の制度を更に擴充(かくじゅう)した。 かくて京都・大坂・堺・長崎等の豪商をはじめ、西南地方の諸大名、近畿の緒寺院等は頻(しき)りに朱印船を支那・印度・南洋諸島に送って盛に貿易を行い、江戸時代初期の海外貿易は前代を凌(しの)ぐ活況を呈した。 その盛況は慶長9年(2264)から元和(げんわ)2年(2276)に至る13年間に、朱印状の下附數が179通に及んだことにも窺(うかが)はれる。 豊臣秀吉の雄圖 1.大唐都へ叡慮(えいりょ)うつし申すべく候。其の御用意あるべく候。明後年行幸せらるべく候。 1.大唐関白は秀次へ譲らせらるべく候。然れば都の廻(まはり)百ヵ國御渡なさるべく候。日本関白は大和中納言(羽柴秀保/はしばひでやす) 備前宰相(宇喜多秀家)兩人の内、覚悟次第仰せ出さるべき事。 1.高麗の儀は岐阜宰相(羽柴秀勝)か、然らずば備前宰相置かるべく候。然れば丹波中納言(羽柴秀俊)は九州に置かるべく候事。 1.震旦國(しんたんこく/支那)へ叡慮ならせられ候 路次(ろし)、例式行幸の儀式たるべく候。御泊々は、今度御出陣道路、御座所(ござしょ)に然るべく候。人足(にんそく)、傳馬(てんま)は國限に申し付くべき事。 (秀吉書状)

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