鎖国の功罪 泰平の世と太平洋の分割

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(4)鎖国 海外移住と日本人町 江戸時代初期における海外貿易未曽有の発展に伴って、海外移住の國民も次第に多くなり、その數は少なくとも一萬と推算せられ、呂宋(ルソン)のマニラ、(コーチ)のフェフォ・ツーラン、カンボジアのプノンペン付近などには日本人町が建設せられた。 ここに移住した我が国民は自治制度を布いてよく団結し、潑刺(はつらつ)たる貿易を行って朱印船の活躍とともに、當時に於ける南方発展の中心をなした。 海外発展の限界 しかしこれらの南方発展も惜しむらくはなほ個人的活躍の程度に止(とど)まって、強力な国家の保護を欠いた。 朱印船等には幕府の保護が與へられたとはいへ、それも僅かに船籍の證明(しょうめい)を與へて渡航と貿易を特許したものに過ぎず、統制ある植民政策を背景とする国家的活動ではなく、殊に天皇御親率の下に皇威を海外に宣揚するための水軍の活動でなかったことは、當時の内外情勢からして極めて遺憾なことであった。 海外発展の中絶 されば南方に進出した我が國民も、ヨーロッパ諸國民の強大な武力と巧妙な植民政策を背景とする活動によって、幾多の妨害と壓迫(あっぱく)を蒙(こうむ)り、やがて寛永(かんえい)の鎖国とともに、帰路を絶たれた幾多の同胞がすべて骨を異境の土に埋めたことは、まことに惜しみても餘(あま)りあることであった。 鎖国の原因と断行 江戸時代鎖国の主な原因は、當時急速に我が国に弘(ひろ)まりつつあったキリスト教によって、我が國古来の良習・美風が毀(こは)され、治安を紊(みだ)されることが恐れられたためであった。 先づキリスト教に對し、禁厭(きんえん)の方針をとったのは秀吉である。 家康はややその態度を緩めたが、その後秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)と代を重ねるに随(したが)ってその禁厭はいよいよ厳格となり、踏繪(ふみえ)、その他の方法によってキリスト教の根絶が期せられた。 かくて島原の亂の結果、幕府は遂に寛永13年(皇紀2296[西暦1636])、ポルトガル商船の来航を禁じ、越えて16年(皇紀2299)、オランダ・支那の商船だけ長崎に於いて僅かに貿易することを許すこととなり、ここに江戸時代200年に亙る鎖国政策が確立せられた。 鎖国の影響 この鎖国の断行によって我が国には稀有の太平が齎(もたら)され、その間國内の産業は発達し、文教の大(おおい)なる興隆を見たが、しかし國民の海外發展はここに全く阻止せられ、その海外情勢の認識もオランダ商人を通じての僅かなものに止まって世界の進運に遅れ、殊にこの間我が國が泰平の夢を貪(むさぼ)りつつあった時に、相次いで伸(のば)された欧米諸国の東亜侵略の魔手によって、東亜の諸国とその豊富な資源が全くそれらの蹂躙(じゅうりん)に任せられ、太平洋が擅(ほしいまま)に分割せられてしまったことは、鎖国の残した最も大きな影響であった。

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