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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】21. キリスト教と鉄砲の伝来

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(2)西力(せいりき)の東漸(とうぜん)と世界の情勢

欧人の渡来とその影響

ヨーロッパ人の我が国への渡来は戦国時代の後半にはじまる。

我が國民はこの時初めてヨーロッパ人に接し、それらによって齎(もたら)された。

文物・宗教に触れて世界に対する視野を広めたが、延(ひ)いてはまたこれによって国家意識が呼び起こされ、海内統一の気運が促された。

東西交通の動機

東西両洋の交通は、さきに元が亜欧に跨(またが)る大国を建設したことによって、俄に活況を呈し始めたが、我が鎌倉末期にトルコが興って、東西交通の要地たるコンスタンチノーブルを占領したため、これまでの東西交通は遮断せらるることとなった。

西欧において直接東亜との海路通商を開く必要が、切実に感ぜられ始めたのはこの時からである。

新航路の開拓

これよりさき元(げん)の忽必烈汗(フビライハン)に仕へたイタリヤ人マルコ=ポーロは帰国の後、「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」を著したが、その中で我が国をジパングの名の下に、金銀珠玉に富む國として紹介したため、ヨーロッパ人の間に俄然日本渡航の憧憬(どうけい)が高まり、遂に我が第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の明應(めいおう)元年(皇紀2152年)、イタリア人コロンブスが日本への渡航開拓の途中、偶然アメリカ大陸を発見した。

次いで明應7年(皇紀2158)、ポルトガル人バスコ=ダ=ガマはアフリカの南端を廻り、初めて印度に到達した。

葡西(ポルトガルとスペイン)両国の東亜進出

爾来ポルトガルは主として東南アジア方面の経営に力を注ぎ、第104代 後柏原(ごかしわはら)天皇の永正(えいしょう)7年(皇紀2170)にはインドのゴアを攻略して印度侵略の根拠地とし、更にセイロン島を奪ひ、翌8年(皇紀2171)にはマライ半島の要地マラッカを略取し、進んでモロッカ諸島を領有した。

かくてポルトガルは南洋諸島に於ける香料貿易を独占することとなったが、ますます東進を続けて商船を盛に支那に遣はし、第105代後奈良天皇(ごならてんのう)の弘治(こうち)3年(皇紀2217)明から澳門(まかお)を得るに及び、ここを根拠として盛んに印度・支那と貿易を行ひ始めた。

これに対しイスパニヤはコロンブスのアメリカ大陸発見以来、主として力をアメリカ大陸に注ぎ、永正16年(皇紀2179)、メキシコを征服してこれをノバ=イスパニヤ(濃毘數船 のびすはん)と命名し、またインカ帝国を滅ぼしてペルー地方の経営に當り、更に東亜に於いては先にポルトガル人マゼランが世界一周の途中発見したフィリピン諸島を占領して、第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の元亀(げんき)2年(皇紀2231)、マニラをその首都と定め、東亜侵略の根拠地とすることとなった。

太平洋問題の発端

かくてイスパニア・ポルトガル両国は他のヨーロッパ諸国に魁(さきが)け、軍艦・商船を連ねて我が戦国時代の東亜を蝕(むしば)み、豊富を誇る東亜の資源は空しくその手に委ねられた。

この間、東亜諸国の中で独り目覚めていたのは我が國だけであったが、我が邊海の士民の勇猛果敢な南方進出も、これと競ふには背後の力を缺(か)き、後に我が国の生存に関する重大問題として、長く我が國民の上に重い桎梏(しっこく)となって残された太平洋問題と東亜、殊に支那問題とは、この時代に先づ最初の種子が蒔かれ始めたのである。

欧人の来航と鐵砲(てっぽう)の傳来(でんらい)

ヨーロッパ人が我が国に来朝したのは、後奈良天皇の天文(てんもん)12年(皇紀2203)、たまたま一艘(いっそう)のポルトガル商船が大隅(おおすみ)の種子島に漂着したのが最初である。

この時また我が国に初めて鉄砲が傳(つた)へられた。

これからポルトガル商船は盛に我が国に来航して、九州地方の諸大名と貿易を行ひ、イスパニヤも天正(てんしょう)年間には我が国に来航して貿易を開始した。

當時わが国民はその商人・商船を南蛮人・南蛮船と称し、新来の西欧文物に対してはよくこれを活用することに努め、殊に鉄砲の傳来に当たっては直ちに製法を学び、その製作に努めてここに火器使用の端緒が開かれた。

この鉄砲の伝来が、我が国の兵備及び戦術の上に与えた影響は頗(すこぶ)る大なるものがあった。

天主教の傳播(でんぱ)と海外渡航

かくてヨーロッパ人の渡来によってわが国民の海外認識は深められ海外発展の気運はますます促されることとなったが、ヨーロッパ人の渡来後直ちに我が国に傳えられたキリスト教は、続々来朝した宣教師の熱心な傳導によって、急速に全国に広まった。

當時この教は天主教(てんしゅきょう)、或は切支丹宗(きりしたんしう)と称せられ、天正(てんしょう)年間には全国の信徒は凡そ十五萬を算へるようにさへなった。

而して熱心な信者となった大友・大村・有馬の九州三大名が、天正10年(皇紀2242)、遠くローマに派遣した伊藤満所(まんしょ)以下の少年使節は、萬里の波濤を越えて異境に堂々とその使命を果し、大いに我が國民の海外発展を鼓舞したが、これらが帰朝の際に齎(もたら)した地圖・地球儀・時計などの文物はまた国民の海外認識を大いに深めた。

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欧人の渡来とその影響

ヨーロッパ人の我が国への渡来は戦国時代の後半にはじまる。

我が國民はこの時初めてヨーロッパ人に接し、それらによって齎(もたら)された。

文物・宗教に触れて世界に対する視野を広めたが、延(ひ)いてはまたこれによって国家意識が呼び起こされ、海内統一の気運が促された。

東西交通の動機

東西両洋の交通は、さきに元が亜欧に跨(またが)る大国を建設したことによって、俄に活況を呈し始めたが、我が鎌倉末期にトルコが興って、東西交通の要地たるコンスタンチノーブルを占領したため、これまでの東西交通は遮断せらるることとなった。

西欧において直接東亜との海路通商を開く必要が、切実に感ぜられ始めたのはこの時からである。

新航路の開拓

これよりさき元(げん)の忽必烈汗(フビライハン)に仕へたイタリヤ人マルコ=ポーロは帰国の後、「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」を著したが、その中で我が国をジパングの名の下に、金銀珠玉に富む國として紹介したため、ヨーロッパ人の間に俄然日本渡航の憧憬(どうけい)が高まり、遂に我が第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の明應(めいおう)元年(皇紀2152年)、イタリア人コロンブスが日本への渡航開拓の途中、偶然アメリカ大陸を発見した。

次いで明應7年(皇紀2158)、ポルトガル人バスコ=ダ=ガマはアフリカの南端を廻り、初めて印度に到達した。

葡西(ポルトガルとスペイン)両国の東亜進出

爾来ポルトガルは主として東南アジア方面の経営に力を注ぎ、第104代 後柏原(ごかしわはら)天皇の永正(えいしょう)7年(皇紀2170)にはインドのゴアを攻略して印度侵略の根拠地とし、更にセイロン島を奪ひ、翌8年(皇紀2171)にはマライ半島の要地マラッカを略取し、進んでモロッカ諸島を領有した。

かくてポルトガルは南洋諸島に於ける香料貿易を独占することとなったが、ますます東進を続けて商船を盛に支那に遣はし、第105代後奈良天皇(ごならてんのう)の弘治(こうち)3年(皇紀2217)明から澳門(まかお)を得るに及び、ここを根拠として盛んに印度・支那と貿易を行ひ始めた。

これに対しイスパニヤはコロンブスのアメリカ大陸発見以来、主として力をアメリカ大陸に注ぎ、永正16年(皇紀2179)、メキシコを征服してこれをノバ=イスパニヤ(濃毘數船 のびすはん)と命名し、またインカ帝国を滅ぼしてペルー地方の経営に當り、更に東亜に於いては先にポルトガル人マゼランが世界一周の途中発見したフィリピン諸島を占領して、第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の元亀(げんき)2年(皇紀2231)、マニラをその首都と定め、東亜侵略の根拠地とすることとなった。

太平洋問題の発端

かくてイスパニア・ポルトガル両国は他のヨーロッパ諸国に魁(さきが)け、軍艦・商船を連ねて我が戦国時代の東亜を蝕(むしば)み、豊富を誇る東亜の資源は空しくその手に委ねられた。

この間、東亜諸国の中で独り目覚めていたのは我が國だけであったが、我が邊海の士民の勇猛果敢な南方進出も、これと競ふには背後の力を缺(か)き、後に我が国の生存に関する重大問題として、長く我が國民の上に重い桎梏(しっこく)となって残された太平洋問題と東亜、殊に支那問題とは、この時代に先づ最初の種子が蒔かれ始めたのである。

欧人の来航と鐵砲(てっぽう)の傳来(でんらい)

ヨーロッパ人が我が国に来朝したのは、後奈良天皇の天文(てんもん)12年(皇紀2203)、たまたま一艘(いっそう)のポルトガル商船が大隅(おおすみ)の種子島に漂着したのが最初である。

この時また我が国に初めて鉄砲が傳(つた)へられた。

これからポルトガル商船は盛に我が国に来航して、九州地方の諸大名と貿易を行ひ、イスパニヤも天正(てんしょう)年間には我が国に来航して貿易を開始した。

當時わが国民はその商人・商船を南蛮人・南蛮船と称し、新来の西欧文物に対してはよくこれを活用することに努め、殊に鉄砲の傳来に当たっては直ちに製法を学び、その製作に努めてここに火器使用の端緒が開かれた。

この鉄砲の伝来が、我が国の兵備及び戦術の上に与えた影響は頗(すこぶ)る大なるものがあった。

天主教の傳播(でんぱ)と海外渡航

かくてヨーロッパ人の渡来によってわが国民の海外認識は深められ海外発展の気運はますます促されることとなったが、ヨーロッパ人の渡来後直ちに我が国に傳えられたキリスト教は、続々来朝した宣教師の熱心な傳導によって、急速に全国に広まった。

當時この教は天主教(てんしゅきょう)、或は切支丹宗(きりしたんしう)と称せられ、天正(てんしょう)年間には全国の信徒は凡そ十五萬を算へるようにさへなった。

而して熱心な信者となった大友・大村・有馬の九州三大名が、天正10年(皇紀2242)、遠くローマに派遣した伊藤満所(まんしょ)以下の少年使節は、萬里の波濤を越えて異境に堂々とその使命を果し、大いに我が國民の海外発展を鼓舞したが、これらが帰朝の際に齎(もたら)した地圖・地球儀・時計などの文物はまた国民の海外認識を大いに深めた。

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