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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】28.尊攘運動の進展と大政奉還

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尊攘運動の進展と大政奉還

尊攘運動の発展

嘉永(かえい)・安政年間に於ける水戸藩を中心とする諸藩及び志士の尊攘運動は、幕府を鞭撻(べんたつ)し、頽廃(たいはい)した士気を振肅(しんしゅく)して外夷を防ぎ、國體を擁護し奉らうとするにあった。

然るにやがて文久年間に入るや尊攘運動は次第に皇政復古をめざす討幕運動に進展し、薩摩・長門(ながと)・土佐等の雄藩(ゆうはん)の志士は忠誠憂国の心あふれて京都に集り、少壮気鋭の朝臣と気脈を通じて浪士と往来し、しきりに討幕を画策しはじめた。

薩長二藩の活動

かくて西国の諸大名は多く上洛して皇居警衛の朝令を拝し、幕府の威力は全く地に堕ちて政局の中心は正に京都に移った観があった。

この頃から薩長二藩の活動は特に著しく、薩州藩は幕府の改革を望んで文久二年(2522)、前藩主斉昭(なりあき)の弟 島津久光(しまずひさみつ)は朝命を奉じ、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して江戸に下り、朝旨の伝達に尽くした。

この朝旨は将軍を上洛せしめて公武合体の實を示さしめるとともに、幕府をして大いに幕政を改新せしめることにあった。

ところがその後長州藩は過激な攘夷討幕の説を唱へて京都を動かし、文久三年(2523)、やがて将軍家茂が上洛した時は、京都には尊皇攘夷の徒が多く集って攘夷の気勢を募るばかりであったため、将軍も遂に勅命を奉じ5月10日をもって攘夷の期日と定め、これを諸藩に布告した。

攘夷討伐の気勢

かくてその期日になり長州藩は下関海峡を通過する米・佛・蘭の艦船を砲撃して攘夷の気勢を煽(あふ)り、また進んで討幕を企て、三条実美(さんじょうさねとみ)等の朝臣と謀って攘夷御親征と号し、大和に行幸を請ひ奉って一挙に討幕を行はうとさへ企てた。

朝儀の急変と討幕の挙兵

然るに朝議は俄に一変して親征の延期となり、長州藩の皇居護衛は免ぜられ、次いでいはゆる七卿落(しちきゃうおち)となって京都の形勢は逆転した。

これに失望した志士は憤慨やる方なく、大和・但馬(たじま)・常陸(ひたち)等に相次いで尊攘討幕の兵をあげたが、いづれも時未だ到らず幕府のために撃破せられた。

また長州藩の三家老は尊攘の誠意を訴へるため兵を率いて東上するに及び、会津・薩摩・桑名などの諸藩はこれを防いでいはゆる蛤御門(はまぐりごもん)の変を惹起した。

長州征伐

ここに於いて幕府は勅令を奉じ長州征伐の軍を起こしたが、長州藩ではひたすら罪を謝し恭順(きょうじゅん)の意を示したので、やがて幕府も軍を停(とど)めた。

ところが程なく長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)は藩主を奉じて再び兵をあげ、幕府に反抗したので幕府は勅許を得て再征の軍を発したが、この時既に薩長の連合が成立して薩州藩は長州藩を援助し、幕府は戦況の不利に加えて将軍家茂が大阪に薨(こう)じたので、一橋慶喜がこれに代わって将軍となり、慶応二年(2526)、勅命によって職を停めた。

討幕の勅使降下

慶応二年十二月、孝明天皇が崩御あらせられて、翌年正月、第122代明治天皇が践祚(せんそ)あらせられた。

この頃朝臣の間にも次第に討幕の気勢が高まり、岩倉具視(いわくらともみ)、三条実美(さんじょうさねとみ)は志士の斡旋によって互いに気脈を通じ、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・長州藩の木戸孝允(きどたかよし)等とともに討幕を計画して、遂に薩長二藩は討幕の密勅を拝した。

大政奉還と幕府の終焉

これに対し幕府をして大政を奉還せしめようとする運動も土佐藩によって進められ、これに奔走したのが後藤象二郎(ごとうしょうじろう)であったが、前藩主山内豊信(やまうちとよのぶ)は時期の到来したのをみて10月13日、幕府に書を呈して大政奉還(たいせいほうかん)を勧めた。

慶喜も深く時勢を察して意を決し、遂に翌14日、大政奉還を奏請(そうせい)し、併せて幕府の失政を陳謝し奉った。

奇しくもそれは討幕の密勅降下と同日のことである。

奏請の趣旨は列強と対峙し、國體を擁護し奉るには政権を朝廷に還し奉り、公議を盡して聖断(せいだん)を仰がねばならないといふにあった。

その誠意は直ちに聴許(ちょうきょ)あらせられ、かくて江戸幕府は開設以来265年で亡び、源頼朝鎌倉幕府創設以来の武家政治がここに終を告げたのである。

皇政復古と国難の克服

江戸幕末内外の情勢は正に我が國未曾有(みぞう)の国難を現出した。

殊に當時に於ける欧米列強の東亜侵略によって、幾多の東亜及び南方の諸国が蒙(こうむ)った領土的侵害とその惨禍を思ふ時、我が国は實に累卵(るいらん)の危きにあったのである。

然るに我が國に於いては肇国以来、上(かみ)に萬世一系(ばんせいいっけい)の天皇を戴(いただ)き、下(しも)国民の忠君愛国の至誠は渝(か)わることなく、ここに皇室を奉戴して挙国一致、以て欧米諸国の外寇を撃攘(げきじょう)し、尊厳無比な我が國體を擁護し奉ろうとする国民精神の昂揚が、やがて尊皇攘夷となって皇政復古を実現し奉りよく国難を克服し得たことは、實に我が國體のしからしめるところであるとともに、我が肇国精神の輝かしい発露であった。

大政奉還の上表(抄出)

愈(いよいよ)朝権一途に出て申さす候ては 綱紀(こうき)立ち難く候間、

従来の舊習(きゅうしゅう)を改め、政権を朝廷に帰し奉り、廣く天下の公儀を盡し、

聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候得は、必ず海外万国と竝(なら)び立つへく候。

臣慶喜国家に盡す所是(これ)に過きすと存し奉り候。

(慶應3年10月14日)

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尊攘運動の発展

嘉永(かえい)・安政年間に於ける水戸藩を中心とする諸藩及び志士の尊攘運動は、幕府を鞭撻(べんたつ)し、頽廃(たいはい)した士気を振肅(しんしゅく)して外夷を防ぎ、國體を擁護し奉らうとするにあった。

然るにやがて文久年間に入るや尊攘運動は次第に皇政復古をめざす討幕運動に進展し、薩摩・長門(ながと)・土佐等の雄藩(ゆうはん)の志士は忠誠憂国の心あふれて京都に集り、少壮気鋭の朝臣と気脈を通じて浪士と往来し、しきりに討幕を画策しはじめた。

薩長二藩の活動

かくて西国の諸大名は多く上洛して皇居警衛の朝令を拝し、幕府の威力は全く地に堕ちて政局の中心は正に京都に移った観があった。

この頃から薩長二藩の活動は特に著しく、薩州藩は幕府の改革を望んで文久二年(2522)、前藩主斉昭(なりあき)の弟 島津久光(しまずひさみつ)は朝命を奉じ、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して江戸に下り、朝旨の伝達に尽くした。

この朝旨は将軍を上洛せしめて公武合体の實を示さしめるとともに、幕府をして大いに幕政を改新せしめることにあった。

ところがその後長州藩は過激な攘夷討幕の説を唱へて京都を動かし、文久三年(2523)、やがて将軍家茂が上洛した時は、京都には尊皇攘夷の徒が多く集って攘夷の気勢を募るばかりであったため、将軍も遂に勅命を奉じ5月10日をもって攘夷の期日と定め、これを諸藩に布告した。

攘夷討伐の気勢

かくてその期日になり長州藩は下関海峡を通過する米・佛・蘭の艦船を砲撃して攘夷の気勢を煽(あふ)り、また進んで討幕を企て、三条実美(さんじょうさねとみ)等の朝臣と謀って攘夷御親征と号し、大和に行幸を請ひ奉って一挙に討幕を行はうとさへ企てた。

朝儀の急変と討幕の挙兵

然るに朝議は俄に一変して親征の延期となり、長州藩の皇居護衛は免ぜられ、次いでいはゆる七卿落(しちきゃうおち)となって京都の形勢は逆転した。

これに失望した志士は憤慨やる方なく、大和・但馬(たじま)・常陸(ひたち)等に相次いで尊攘討幕の兵をあげたが、いづれも時未だ到らず幕府のために撃破せられた。

また長州藩の三家老は尊攘の誠意を訴へるため兵を率いて東上するに及び、会津・薩摩・桑名などの諸藩はこれを防いでいはゆる蛤御門(はまぐりごもん)の変を惹起した。

長州征伐

ここに於いて幕府は勅令を奉じ長州征伐の軍を起こしたが、長州藩ではひたすら罪を謝し恭順(きょうじゅん)の意を示したので、やがて幕府も軍を停(とど)めた。

ところが程なく長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)は藩主を奉じて再び兵をあげ、幕府に反抗したので幕府は勅許を得て再征の軍を発したが、この時既に薩長の連合が成立して薩州藩は長州藩を援助し、幕府は戦況の不利に加えて将軍家茂が大阪に薨(こう)じたので、一橋慶喜がこれに代わって将軍となり、慶応二年(2526)、勅命によって職を停めた。

討幕の勅使降下

慶応二年十二月、孝明天皇が崩御あらせられて、翌年正月、第122代明治天皇が践祚(せんそ)あらせられた。

この頃朝臣の間にも次第に討幕の気勢が高まり、岩倉具視(いわくらともみ)、三条実美(さんじょうさねとみ)は志士の斡旋によって互いに気脈を通じ、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・長州藩の木戸孝允(きどたかよし)等とともに討幕を計画して、遂に薩長二藩は討幕の密勅を拝した。

大政奉還と幕府の終焉

これに対し幕府をして大政を奉還せしめようとする運動も土佐藩によって進められ、これに奔走したのが後藤象二郎(ごとうしょうじろう)であったが、前藩主山内豊信(やまうちとよのぶ)は時期の到来したのをみて10月13日、幕府に書を呈して大政奉還(たいせいほうかん)を勧めた。

慶喜も深く時勢を察して意を決し、遂に翌14日、大政奉還を奏請(そうせい)し、併せて幕府の失政を陳謝し奉った。

奇しくもそれは討幕の密勅降下と同日のことである。

奏請の趣旨は列強と対峙し、國體を擁護し奉るには政権を朝廷に還し奉り、公議を盡して聖断(せいだん)を仰がねばならないといふにあった。

その誠意は直ちに聴許(ちょうきょ)あらせられ、かくて江戸幕府は開設以来265年で亡び、源頼朝鎌倉幕府創設以来の武家政治がここに終を告げたのである。

皇政復古と国難の克服

江戸幕末内外の情勢は正に我が國未曾有(みぞう)の国難を現出した。

殊に當時に於ける欧米列強の東亜侵略によって、幾多の東亜及び南方の諸国が蒙(こうむ)った領土的侵害とその惨禍を思ふ時、我が国は實に累卵(るいらん)の危きにあったのである。

然るに我が國に於いては肇国以来、上(かみ)に萬世一系(ばんせいいっけい)の天皇を戴(いただ)き、下(しも)国民の忠君愛国の至誠は渝(か)わることなく、ここに皇室を奉戴して挙国一致、以て欧米諸国の外寇を撃攘(げきじょう)し、尊厳無比な我が國體を擁護し奉ろうとする国民精神の昂揚が、やがて尊皇攘夷となって皇政復古を実現し奉りよく国難を克服し得たことは、實に我が國體のしからしめるところであるとともに、我が肇国精神の輝かしい発露であった。

大政奉還の上表(抄出)

愈(いよいよ)朝権一途に出て申さす候ては 綱紀(こうき)立ち難く候間、

従来の舊習(きゅうしゅう)を改め、政権を朝廷に帰し奉り、廣く天下の公儀を盡し、

聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候得は、必ず海外万国と竝(なら)び立つへく候。

臣慶喜国家に盡す所是(これ)に過きすと存し奉り候。

(慶應3年10月14日)

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