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日本語で話す(あるいは書く)ということはいやおうなくローカルなものになる。なぜならそれは日本語を分かる人たちのために話したり書いたりしているということを意味しているからだ。もちろんそれは翻訳されることもあるだろう。だけれどもほとんどの発話は、そしてほとんどの文章は、翻訳されることもなく日本語のままぼくたちの目の前を流れていく。 それをぼくはネガティヴなものとしてとらえてきていた。でも、しかし、ぼくは日本語で話すし、日本語で考えている。それがたとえローカルな言葉であったとしても、ぼくはそのローカリティのなかで生きている。ならばその言葉の前で、日本語が分かる人たち前で、そのローカリティの中でしかできない会話をすることも必要だろう。そして、ぼくは、自分が話してみたいひとたちと真摯な会話をしてみたいと思う。ときに起こる編集者による不当な修正の手前で、ぼくたちの言葉をそのままのかたちで届けたいと思う。 http://kktnk.com/podcast/ *感想や質問などはこちらまで。kotoba@kktnk.com
 
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かなり間が空いてしまいましたが、森美術館でのアージェント・トーク、後半のQ&Aを公開します。聞き手は森美術館の片岡真実さんです。ここのところ忙しすぎました。 オリジナルの収録日:2011年7月29日、森美術館主催によるアージェント・トークにて。 2/2
 
今回の「言葉にする」は、森美術館で行ったぼく自身のアーティスト・トークの様子をお送りします。ここ数年の近作について、じっくりと話しています。まずは前半の作品の話をどうぞ。 オリジナルの収録日:2011年7月29日、森美術館主催によるアージェント・トークにて。 1/2
 
さて、金氏徹平くんとの最終回は、日本の現代美術について。 日本の現状はいい気もするけど、日本の現代美術がこうなったらいいってありますか、金氏くん? 話はその後、海外で受け入れられる日本のアートにおよびます。いまでもそれはステレオタイプなものが多くげんなりします。 ではまた次回まで。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 6/6
 
金氏徹平くんの5回目は美術史についてです。 ぼくらにとって美術史は重要なものです。そこには先輩たちの苦闘がきざまれているわけですから。 金氏くんはこのなかでひとりひとりがそれぞれの美術史を持てばいいという話をしています。そのとおりですね、過去の作品にはさまざまなヒントが転がっています。ぼくらはそれを繋ぐことで自らを律することができるのかもしれません。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 5/6
 
金氏徹平くんはいま、京都市立芸術大学の常勤講師をしています。この四回目ではそんな美術大学での教育について話してもらいました。 教育になにができるのか。金氏くんなりの教育方針とはどういうものでしょうか。それはひとつには環境を作ることであると。全員が作家になるわけではないので、それを前提とした上で、多様性を認め全員正解で全員不正解という状況を作ることが大切だと話しています。なかなか示唆的ですね。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 4/6
 
金氏徹平くんの三回目、今回は制作の話です。 最初に岡崎乾二郎さんと松浦寿夫さんによる『絵画の準備を!』(朝日出版社、2005年)をきっかけに話しをはじめています。イメージが先か、アイデアが先か。マチスとアンドレ・マッソンを軸に、制作をめぐって話はつづきます。 金氏くんは制作のルールをまず決め、そのルールを厳密に守ることで生じるきしみが重要だと話しています。これはおそらくあらゆるジャンルの制作において重要な意見ですね。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 3/6
 
金氏徹平くんの二回目。引き続き映画の話をしています。 ドキュメンタリーって気になるんですが、即興的な演出によるフィクションもある意味では役者の行為のドキュメントですよね。 ぼくがなかで話しているのは諏訪敦彦さんによる「mother」という映画です。哲朗とアキという同棲中のふたりのもとへ、哲朗の元妻からの連絡がはいります。8歳の息子を預かってほしい。これによって急ごしらえの家族による共同生活がはじまります。その三人の機微を即興演出により描いていく。そんな映画です。おすすめですよ。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 2/6
 
今回はアーティストの金氏徹平さんをお迎えしてお送りします。 たまたまロッテルダムの展覧会(Making is Thinking@ Witte de With)に一緒に参加する機会があって、時間をみつけてもらってホテルで収録しました。 今回は映画の話、制作の話、教育、美術史、日本とかなり多岐にわたっています。いつものように飲みながらなのでかなりだらけてますが。 一回目は映画の話。 ぼくがたまたまロッテルダムで「ノルウェイの森」を見たので、それを巡りつつ話をしてます。ちなみに金氏くんの子どものときの夢が映画監督だったようです。  映画製作って部外者が参入して失敗する例がたくさんあります。ではどうすればいいのでしょうか。なにかぼくらなりにできる方法論はないのか。ぼくらのいつもの制作方法をどのように…
 
齋木克裕さんの最終回は「アーティスト・イニシアティブ」について話しました。 アーティスト主導でできることもたくさんあると思います。そうした小さな声が複数の場所から起きることによってぼくたちのシーンは豊かになると、ぼくは思います。アートというシステムはどん欲にそうやって育ってきたとも言えます。周縁を取り込むことで大きくなってきた。なら、結局のところぼくらはそれを単に無視するのではなく、友好的につき合っていくべきなのかもしれません。そのためにもひとつの声に流されないこと。 齋木さんがはじめている「アートマラソン」は、ブログなどの既存のネットワークを利用し、アーティストだけが参加できる、クローズドで批評的な場所を確保しようとしてます。年間100作品を目指してアップロードし、それぞれがそれぞれに対し…
 
引き続き齋木克裕さんの回、ここからは自宅に戻って二つ目のトピック「ニューヨークと東京の違い」について話しています。 齋木さんは2003年からNYに住んでいるのでもう8年になりますね。はたしてアーティストとしてNYに住むってどんな感じなんでしょうか。ニューヨークはアートの中心なんでしょうか、NYと東京の差ってあるんでしょうか。 ぼくらはどうしてもシステム・制度に対応してしてまう。だからこそ自分たちでなにか別の(オルタナティブな)行動をすることが必要なのかもしれない。 英語が世界のアートのとい共通言語として機能しています。ぼくら日本人は日本語という辺境の言葉を話し、グローバルな世界との関係の中で自らの立場を計ってきました。でもそれはネガティブなことなのでしょうか。 オリジナルの収録日:2010年…
 
だらだらと日々すごすうちに、ずいぶんと更新が滞ってしまいました。 今回はNY在住のアーティスト、齋木克裕さんを迎えてお送りします。齋木さんがどのような作品を作っているのかは彼のwebsiteをみてもらうとして、今回ぼくはNYの齋木さんの自宅を訪ね、次の三つのことについて話してきました。 まずひとつ目は、「写真という作品のあり方」、ふたつ目は「ニューヨークと東京の違いについて」、三つ目は「アーティスト・イニシアティブについて」 というわけで一回目は「写真」という作品のあり方について。 「写真を使って世界を組み替える」と齋木さんは言っていますが、それはどういうことを指しているのでしょう。 ちなみに録音をカフェで行ったため背景のノイズがけっこううるさいかもです。ご了承ください。 オリジナルの収録日…
 
最後はこのあと遠藤くんがひかえている曽根裕さんの個展の話。いい作品をつくろうという意志が、社会性に繋がり、歴史に繋がる。作品って本来そういうものであり、それをシンプルに目指すことがアーティストであると遠藤くんは語ります。 そうですね、ぼくらは右往左往しながらも作品の制作にしがみついて、逃げずに作りつづけていく。そうしたあたり前の態度を肯定するこうした発言には勇気づけられます。そんな話の詰まっている今回、記録できてほんとうによかった。 それではまた次回。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 5/5
 
パーマネントなものとはなにか?作品そのものが美術館にコレクションされ、置かれている状況をパーマネントなものと呼ぶこともできるけど、作品を通して共有されたアイデアがひとのなかに残っていくことをもパーマネントなものと呼べるんじゃないか。アイデアの共有による連鎖。遠藤くんが言うようにそれこそが美術館とは違う時間について考えることにも繋がっていく。 作品に内在する時間に興味があるからこそ、彫刻とパフォーマンスに興味を持つと遠藤くんは言います。そこに複雑な人間のあり方=これを彼は「コンセプチュアリズム」と呼び、その二つの表現に覆い被さっていると。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 4/5
 
アーティストとキュレイターとの関係のことをぼくが振ったら、作品に流れている時間にどうアプローチするかってことに興味があると遠藤くんは言います。作品の持つ独特の時間性、それはけっして通常のシステム、美術館の時間には合わないのかもしれない。それならばその「別の時間」について考えてみることが必要である。アーティストが制作のなかで獲得する独特の時間、それをいかにキュレーションするのか、遠藤くんの問いはこうして作品を通して結果的にアーティストに接続されていきます。 遠藤くんがここ数年で個展を企画したアーティストは以下の三人。冨井大裕、橋本聡、曽根裕。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 3/5
 
二回目セッションでも引き続きレジデンスでのアーティストの生活について。 こんな感じでゆったりと考えてくれているディレクターっていいですね。大概はなにか結果を求められたり、せかされたり、つらいときもあるので。 そして東京とアーカスのある茨城という二つの地域を行き来しながら遠藤くんが感じたこと、大都市の問題。彼が直面していた問題は、ぼくらの直面していることでもあります。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 2/5
 
だいぶご無沙汰してしまいました、「言葉にする」第7回のゲストはキュレイターの遠藤水城さんです。 ぼくがアメリカに来て一年がすぎて、この間、海外のいくつかの場所で展覧会をしながら、社会とアート関係のことをいつも考えさせられてきました。自分の作品がまったく別の文脈のなかに置かれたとき、たとえば広州とトロントではその作品はどのように受け取られるのか、ぼく自身はどのようなアーティストとしてあるべきなのか。非西欧のアーティストが社会的役割、文化的コンテクストを求められるのはなぜか?遠藤さんの解釈をここでは聞くことができます。 そこから遠藤さんがディレクターとして過ごしたアーカスのこと、ギャラリーや美術館とは違うアーティスト・イン・レジデンス。そこでできること、できないこと、そしてやるべきこと。興味深い…
 
最後のセッションではなぜ絵画を選んだのかというと問いから出発してます。 絵画は無理だろうと思われているからこそ、そこに期待がないからこそ、逆にニュートラルにアクセスできるメディアとしてを選んだ、と南川さんは話しています。ビデオはまだ若いメディアですが、普及率で言えば、同じようなものかもしれませんね。 話のおしまいにはちょっとした新しいプロジェクトの提案をしてます。実現させたいですね。 ではまた次回。 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 5/5
 
四回目のセッションでは、作品はどこまで理解されるのか、どこまで理解してほしいのか、いやそもそもなにが理解なのか、ということについて話してます。 話の中で触れているテキストや映像は以下。 ・林卓行「〈リアルな芸術〉のありか」『現代芸術論』(武蔵野美術大学出版局、2002) ・Joseph Kosuth "Four Words Four Colors" (1965) ・ボクサーに試合を挑むダダイストはArthur Cravan、伝記はこちら。谷昌親『詩人とボクサー—アルチュール・クラヴァン伝』(青土社、2002年) ・Bas Jan Ader http://www.basjanader.com/ ・ダダの映像作家は、ダニエル・リヒターではなくハンス・リヒター(Hans Richter)でした。 …
 
三回目のセッションでは「最近、気になる絵描きは誰でしょう?」って問いから出発してます。歳が近いアーティストは気になりますよね?僕の場合は絵描きさんよりもコンセプチュアルなアーティストが気になっちゃいます。 途中で触れている1976年生まれ以下のアーティストを集めた本は、"The Younger than Jesus Artist Directory"(Phaidon Press, 2009)です。Ryan Gander, Mario Garcia Torres, Lee Kitについてはググってください。 マーケット主導の時代が終わり、これからどうなるんでしょうか。作品は売れてほしいですけど。 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 3/5…
 
一回目からつづけての収録。制作についての話は続きます。 ・仕上がりの粗雑さ、失敗のテイストを練習する。 ・成功と失敗の差が分からなくなる。 ・絵画とはそもそも裏側のないものである。 話のなかで出てくるマチスのドローイング、これはピカソの間違いでした(pas_pascalさん感謝!)。ハル・フォスター編『視覚論』(平凡社、2000年)のp99に出てきます。 「これらのスケッチブックは、まさしくアニメーション台と同じように作られた。尖った鉛筆による線が、柔らかい厚紙に刻まれる。すると、その輪郭がその下のページに浮き彫りにされ、そのページの輪郭が、今度はさらにその下のページに刻まれる。(中略)ピカソの採用した生産様式は、インスピレーションの絶えざる湧出などではなく、シリーズの機械的複製にほかならな…
 
第六回目の今回は南川史門さんのスタジオにお邪魔してます。南川さんとは2001年「アートイング」(セゾンアートプログラム、旧牛込柳原町小学校)での展覧会以来の付き合いです。 ぼくはもともとは絵を学ぶために美大に行ったんですが、なんだかんだとしているうちに結局そこからずれていってしまったクチです。でも絵画を見ることは基本的に好きなんですね。興味もある。 このセッションでは、南川さんにとっての絵画とは何かというストレートな話をしています。なぜすべてのモチーフが等距離にあるのか。ぼくが気になるのはそこです。単なるフェティッシュにもよらず、形式的な問題だけによるわけでもない、なにかしらの自由さが見て取れるからです。 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 1/5…
 
「保坂さんとの最終回はぼく自身への疑問?提案?で締めくくられます。ぼくが「世界」というならばそこにはなぜ「他者」がいないのか。ここでぼくはそれに対してうまく答えられてません。課題です。 というわけで三回目の「言葉にする」を終わります。このあとぼくはLAに引っ越すので、ときどきは「ひとり語り」もあるかもしれません。趣旨が変わるけどそのうち英語でもやれたらいいですね。まだまだぼくの英語はひどいですけど。」 と、ここまでが約1年前にぼくが書いていたことです。実際、この間、「世界における他者の問題」はずっとぼくの頭の中にありました。それがどのように作品のなかで展開していったのか、いずれ何らかのかたちで見せることができるといいですね。それではまた。 オリジナルの収録日:2009年1月28日夜…
 
たいへんお待たせしました。保坂健二朗さんとの4回目アップです。1年ぐらいかかってしまいました。ちなみに3、4、5回目のセッションはインターバルなしで録音してますので、もう一度3回目からつづけてお聞き下さい。 美術におけるテキストというものを、ぼくは作者自身についてよりも作品について書かれるべきだって思っていたけど、美術史の世界ではまあそれはあたりまえで、ここが保坂さんらしいと思うけど、その美術史では否定されているアーティストの人生を否定しないこと、「人生か作品」ではなく人生も作品も、両方を抱えることで見えてくることもあるということ。なるほど、そういう視点の転回もありえるはず。 またその辺から「倫理」の話になっていきます(補遺参照)。ぼくたちが直面している基準とはなにかという話でもあります。個…
 
戦後アメリカ美術の背景には大衆文化(ビート・ジェネレーション)があり、ビートニクの背景には東洋思想がある。つまりコンテンポラリー・アートの背景にはそもそも東洋思想があるんだってことなんですね。だからぼくたちは、なにも表面的に日本的な表象を使わずとも、直にアート・ヒストリーに接続できる可能性がある。カズさんはそのように解釈します。 カズさんが「被害者ビジネス」と呼ぶ、マイノリティであることで優遇されてしまうことに安住するんじゃなく、同じ土俵でガチンコするためにぼくらにとってどういう態度が必要なのか。身が引き締まる話ばかりでした。 ではまた次回! オリジナルの収録日:2009年8月20日 4/4
 
日常のなかのノイズに気づくこと、それによって見えていた風景が変化していく。 作品の装いはカズさんのとぼくのとではまったく違いますが、その核となる考え方には共通点がたくさんあるんだなってことに気づかされました。 また話は、戦後アメリカ美術にやられっぱなし(?)の日本のアートの話にもなります。テリヤキチキンと精進料理という比喩をつかって、アメリカでの日本のアートの需要とその後の展開(?)について、するどいつっこみがまってます。ではじゃあ、どうすればいいのか、なかなか難しい問題ですけど、それについては最後のセッションを聞いてください! オリジナルの収録日:2009年8月20日 3/4
 
このセッションではぼくが「展覧会」という制度の問題について疑問を投げかけてます。ぼくがそこで考えていたことは制度を単に否定することではなく、そのなかにいてどのようにアーティストが自由を取り戻すかって問題でした。話は作品をめぐる経済のことにも発展します。でもどうも今回、舌足らずでうまく言葉にできていません。この問題、今後も継続して考えていきたいです。 オリジナルの収録日:2009年8月20日 2/4
 
さて、第五回目はカルフォルニア・シリーズ第二弾ということで、LA在住のアーティスト、大城カズ(大城康和)さんをお迎えしてます。 ぼくがはじめてカズさんの作品を見たのは、いまはなきRelaxというカルチャー誌上ででした。ピンク色のマーシャル・アンプの積み上がっている作品で、それが実はキャンバスでできあがっている立体・絵画だってことを知って驚きました。 ぼくがカズさんに共感するのは制作に対する態度です。自分が立っている場所を受け入れ、できるかぎり妥協せず自分の感じているリアリティを形にする。アーティストならばかならず必要なことなんでしょうけれども、なかなかぼくもできてません。カズさんの制作・言葉からはぶれない確かななにかを感じます。 最初のセッションでは、「作ること」と「見せること」の違い、その…
 
最後は、せっかくだからLAの印象を、となおさんに言われて話してますが、いつの間にか映画の話に。ぼくらにとってはとても悩ましい存在です、映画は。 というわけでまた次回。 オリジナルの収録日:2009年8月1日 5/5
 
ぼくがなおさんと話したかったひとつの理由に映画のことがあります。どんな映画が撮りたいのか、どうやって撮りたいのか、そんな話を前にもしたことがあって。 ぼくは映画をじぶんの娯楽としてたぶん位置づけているところがあって、そのへん、なおさんは映画をじぶんの制作の方法論として据えているところがあるので、この違いがなかなかおもしろくあらわれていると思います。 松本人志の新作「しんぼる」、まったく知りませんでした。日本ではもう公開してますね。ぼくも見たい。ちょうどさいきん「大日本人」がLAでは公開してました。 オリジナルの収録日:2009年8月1日 4/5
 
パフォーマンス・ベースの作品をのちに見せる場合、もはやライブな経験は失われているので、付随するプロップやドキュメントを見せることになります。もはや失われたものを想像して見るっていうことがぼくにはどうも疑問でした。なぜならその場に居合わせていないひとには評価のしようがないものだから。 なおさんもぼくもなにかしらの行為を映像にして見せますが、上に書いたこととの違いをさぐって話してます。その後、なおさんの作品をめぐって、話はふくらみ、とくに夢の話はかなり興味深いです。じぶんとアレするってどういう夢なんでしょう! オリジナルの収録日:2009年8月1日 3/5
 
なおさんとの二回目のセッションです。 カリフォルニアのアーティストについて、カタログを見ながら話してます。ミニマリズムやコンセプチュアル・アートが東海岸から西海岸へ入ってくると、なにかプラスアルファの要素が加えられて変容している、ひとつべつのレイヤーが入っている、ってなおさんは言ってます。たしかにここに上げられているアーティストはそれぞれひとくせありますよね。 Charles Ray, Michael Asher, Chris Burden, Ed Ruscha そのほかなおさんの友人のアーティスト: Jedediah Caesar, Kiersten Puusemp。 ぼくが途中で口走っているのは:Jason DodgeとPak Sheung Chuen *なにかの電波をキャッチして変な電…
 
第四回目の今回は、LA在住のアーティストの廣直高さんをお迎えしてます。 せっかくなのでカルフォルニアのことを、ってなおさんが言ってくれたので、まずは彼自身の作品のことを絡めつつ、LAのアートについても話してもらってます。まだまだLAのことは知らないことがたくさんなので、とても興味深く聞きました。 ところで今回も機材の使い方がいまいち慣れていなく、録音レベルオーバーでところどころノイズが入ってしまいました。お聞き苦しくてすみません! 追記:保坂さんの回がまだ残ってますが、諸事情があってアップでいないので、もうしばらくお待ち下さい! オリジナルの収録日:2009年8月1日 1/5
 
こんにちは、田中功起です。今回はひとりで近況報告です。長坂常さんの「B面がA面にかわるとき」について話してます。メールアドレスも作りました(本編では言うのをさっそく忘れてます)。感想や間違いの報告、要望、あとはぼく自身への質問などもどうぞ!ポッドキャストで取り上げることがあるので、ラジオネームなどを添えてください。 kotoba@kktnk.com よろしく!
 
ひきつづき保坂健二朗さんとの三回目のセッションです。 ある鼎談で、保坂さんが「なにも頼まれなくてもやっているひと=アーティスト」と言っていたことをぼくは気になっていました。アーティストって何者なんだろう。保坂さんはどうそれをとらえているんでしょうか、そういうことについて話してます。失敗作を見せる勇気とそれを受け入れる目線という話もなかなかおもしろかったです。 補遺: 1,話の中にでてくる本はこれです。『キュレーターになる! アートを世に出す表現者』(フィルムアート社、2009) 2,あと興味のある方のためのキーワード:「宏観異常現象(こうかんいじょうげんしょう)」ぐぐってください。 3,中原浩大さんの参加した展覧会の正式なタイトルは「景観 もとの島」(仙台メディアテーク、2005) 4,ジュ…
 
保坂健二朗さんとの二回目のセッションです。すみません。ずいぶん間が空いてしまいました。 ここでは一回目のセッションにひきつづき「書くということ」について話しています。単に新書や雑誌を否定するのではなく、新書でしかできないことや一般誌でしかできないことの可能性について保坂さんが話しています。つまり純粋な批評や学術論文ではないあり方でもテキストは書けるし、そうして伝えられていくこともある。そうして話は今回の肝、広告とアートの関係について及びます。悩ましい関係がこのふたつにあって、これはぼくが事前に用意した内容ではないですが、期せずして興味深い話に及びます。保坂さんのフレキシブルな発想にやられっぱなしでした。ぼくたちが自覚的であるかぎり、可能性はどこにでもあるってことですよね? ぼくが話の中で「中…
 
第三回目の今回は、東京国立近代美術館の保坂健二朗さんと話しています。同級生の活躍ってなんだか気になるもので、保坂さんは同級生です。たとえば本上まなみさんも同級生ですね。 保坂さんは2008年に「建築が生まれるとき ペーター・メルクリと青木淳」と「現代美術への視点6 エモーショナル・ドローイング」というふたつの展覧会を企画していて、いずれもとても興味深いものでした。ちなみに「建築が〜」のカタログでは、青木淳さんについてのぼくのテキストも掲載されています。 まずは批評および書くことについて、その困難さも含めて、ワインを飲みながら話してます。ちなみに今回から録音機材がアップグレードされたのですが、どうやら録音レベルが低かったらしく、以前とくらべて音量が低めです。すみません。 オリジナルの収録日:2…
 
粟田大輔さんと話す、その4 最後のセッション。ここでは話題をかえてポッドキャストについて話してます。粟田さんもポッドキャストをやろうと思っていたらしく、そのときのことや、最後には新しい批評誌の提案まで「言葉にする」ことをめぐって話してます。 ではではまた次回。 オリジナルの収録日:2008/12/28 *録音機材の問題で聞きづらい部分がありますが、ご了承ください。
 
粟田大輔くんと話す、その3 三回目のセッションでは、ぼくが粟田さんの質問に答えています。豊かな現実の出来事と作品はどういう関係にあるのか、ということから、作品とそれを作ったぼく自身の身体的なリアクションのことまで、つつみ隠さず話してます。 オリジナルの収録日:2008/12/28 *録音機材の問題で聞きづらい部分がありますが、ご了承ください。
 
粟田大輔くんと話す、その2 このセッションでは河原温さんの作品をめぐって、その作品をアーティストの身体との関係から話してます。一見、身体的な表現とはほど遠く見える河原さんの作品を、ぼくたちがいやおうなく縛られているこの身体があくまでベースとなって生み出される身体的な作品であるというふうにとらえています。 ぼく、田中がちょっと話しすぎですが、どうぞよろしく。 オリジナルの収録日:2008/12/28 *録音機材の問題で聞きづらい部分がありますが、ご了承ください。
 
粟田大輔くんと話す、その1 第二回目の今回は、粟田大輔くん(美術解剖)をお迎えしてお送りします。きっかけは「奥村雄樹くんと話す、その4」のなかでぼくと奥村くんが飲み会での粟田くんの発言を肴にしゃべってしまったこと。明文化されていないものをとりあげるのはあまりよくないのでは、という粟田くんの指摘を受けて、そのときにおおざっぱに分けてしまった作家論と作品論の区分けについて、もういちど考えてみるというのが今回の目的です。 実際、ぼくたちの会話は、作者の言葉はどういう位置にあるのか、どこまでを作品として考えるのか、そうした作り手と作品の分かちがたくある関係をめぐって進められた。 全4回、どうぞお聞き下さい。 オリジナルの収録日:2008/12/28 *録音機材の問題で聞きづらい部分がありますが、ご了…
 
奥村雄樹くんと話す、その4 なにかを感じて、それをひとまずはじぶん自身から突きはなす、ためにいったん忘れる。解除する。それがもういちど置きなおす。でもそれがどういうふうに置かれるか、その再配置を決定する判断の中に、最初の感覚が使用される。と、とっても抽象的だけれども作品制作のプロセスはこうした個人的な「感覚」をどうあつかうかにって決まってくるように思う。 奥村「批評とは言及対象(作品)それ自体がいったい何なのかを記述することである」 ぼくたちは作品そのものを評価するのか、それともアーティスト個人を評価するのか。つまり作品論が大切なのか、アーティスト論が大切なのか(つまりアーティストがつくった作品の流れや考えたことが大切なのか)。 話はつきないけど、ここでひとまず今回の会話は終わります。最後ま…
 
奥村雄樹くんと話す、その3 偶然に作品はできないけれども、作品のなかには偶然が入っている、ということがどうやら必要なことらしい。というのはぼくも奥村くんもわかっている。でもそれはなぜなんだろう。 その偶然というものを「ノイズ」ととらえ直してもいいかもしれない。 作品のなかに含まれるノイズ。筋道立てたすものごとを進みにくくさせるノイズ。 奥村くんは2006年の時点で、そのノイズを「ナラティヴ」といい、そこにぼくが当時、否定的に思っていたつぎのものを含めていた。政治的文脈、歴史的文脈、シンボリズム、メタファー、そして個人の物語(これはぼくが追加したものだけれども)。偶然、ノイズ、ナラティブはとりはらうべきものじゃなくて、それによって作品制作が豊かになることもある、それがそのころの結論だった。でも…
 
奥村雄樹くんと話す、その2 たとえば自分とはなんだろうか、たとえばなぜ作品の中に日常の風景が出てくるのか、いやそもそも日常と非日常の違いがあるのかないのか、などなど。つづけて録音されたこの二回目のセッションでは、ノーカットの会話特有の矛盾もちょっと出てきますが、さらに白熱(?)していきます。 田中「ぼくにとってはこの日常の光景は、自分の作品がそこからの地続きであるために必要なんだ」 奥村「そもそも日常、非日常の区別はなく、すべては同じであると思う」
 
奥村雄樹くんと話す、その1 今回は、批評活動もしているアーティスト、奥村雄樹くんといままでのぼくたちのなかでの会話ややりとりをまとめつつ話してみた。 たとえばぼくたちはこの世界をどのようにとらえてそれを作品に反映させているのか、とか。そうしたことが話の中心になってます。 なぜ、まず最初に奥村くんと話したかったかというと、ぼくたちはいちどゆっくりと時間をかけてメール書簡を交換したことがあり、つくることのプロセスをわりとざっくばらんにやりとりできたんですね。奥村くんはいつもものごとを整理したうえで返信をくれて、それが彼の作品のつくりかたにもなんとなく反映されているようにも思いました。なぜなら奥村くんの作品には、いつもシンプルなルールがあって、でもそこからはずれることをよしとしない厳密さもあって、…
 
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