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show episodes
 
すでに17世紀から、この土地にはハプスブルク家の館がありましたが、1683年にオスマントルコ軍による第二次ウィーン攻撃の際に破壊されました。オスマントルコ軍を撃退した後、皇帝レオポルト1世は、夏の間宮廷人が狩猟を楽しむための宮殿建設を、オーストリアにおけるバロック建築の巨匠フィッシャー・フォン・エルラッハに依頼しました。それから半世紀後、マリア・テレジア女帝は、宮廷建築家ニコラウス・パカッシに命じて、シェーンブルン宮殿をロココ様式に改築させ、夏の離宮としました。女帝はこの宮殿で1500人以上の宮廷人とともに、夏の数ヶ月を過ごしたのです。これからの見学コースでご覧いただける通り、皇帝一家の人々は、自ら宮殿の内装に関与しています。こうして宮殿には、ハプスブルク家の居住文化や日常生活が、今日に至るまで生き生きと伝えられています。マリア・テレジアの後継者も、この宮殿に手を加えました。とりわけ数代後の子孫にあたる皇帝フランツ・ヨーゼフは、ここで生まれ、68年に及ぶ治世の後、1916年に、ここで世を去りました。階段を上られた後、右手へ進まれると、いわゆる「杉綾模様の部屋」です。左手の窓の外 ...
 
ウィーンの中心部にある広大な宮殿は1918年までは王朝の中枢部でしたが、現在はオーストリア共和国の政治的な中心部となっています。かつて皇帝ヨーゼフII世が数々の改革案を練り、ウィーン会議が開かれ、皇帝フランツ・ヨーゼフが謁見したこの王宮では現在、オーストリア大統領はじめ大臣や国務長官たちが執務しています。19の中庭と18の棟をからなるアシンメトリーな建築複合体には、スペイン乗馬学校やオーストリア国立図書館などの文化施設も見られます。Ӝィーンの中心部にある広大な宮殿は1918年までは王朝の中枢部でしたが、現在はオーストリア共和国の政治的な中心部となっています。かつて皇帝ヨーゼフII世が数々の改革案を練り、ウィーン会議が開かれ、皇帝フランツ・ヨーゼフが謁見したこの王宮では現在、オーストリア大統領はじめ大臣や国務長官たちが執務しています。19の中庭と18の棟をからなるアシンメトリーな建築複合体には、スペイン乗馬学校やオーストリア国立図書館などの文化施設も見られます。銀器コレクションでは、全長30メートルにおよぶ豪華な公式用ディナーセットのテーブル、食卓調度品がご覧いただけます。シシィ ...
 
視�者��������時�自動車産業���る方々�インタビューを行�����。 For English version, search for "Moto Japan" Podcast.
 
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MotoJapan(http://motojapan.me/)代表とMotoBe(http://moto-be.com/)編集長の現役20代バイク乗りがお送りする、バイクラジオチャンネルアクセル全開で第一弾収録!もとじゃぱん による
 
ネプコンジャパン2018 〜オートモーティブテクノロジーの巻〜 出演者 ・株式会社オーファ 細川 寿二さん 引地 祥郎さん ・ユニチカ株式会社 大日方 英樹さんもとじゃぱん による
 
視è�´è€…å�‘ã�‘ã�«å�–æ��ç�­ã�Œéš�時ã€�自動車産業ã�«æ�ºã‚�る方々ã�¸ã‚¤ãƒ³ã‚¿ãƒ“ューを行ã�£ã�¦ã�„ã�¾ã�™ã€‚ For English version, search for "Moto Japan" Podcast.もとじゃぱん による
 
1918年、ハプスブルク王朝が崩壊すると、主人を失った宮廷の食器類や調度品の数々が「王宮銀器・食卓調度保管室」に統合され、1923年から一般公開されました。展示品には、磁器コレクション、王宮菓子製造所、王宮地下倉庫、厨房、王宮洗濯所などの所蔵品も含まれています。この見学コースで、宮廷における日常生活の多彩な側面と、ハプスブルク皇帝の豪華な食卓の様子をご覧ください。ここに展示されているのは、銅製の桶、湯沸し、ポット、流し型などで、王宮の厨房における大規模で多彩な業務を物語っています。魚用の桶、湯沸し、アスパラガス用の桶、数日間煮込むスープ用の特製鍋、蓋の窪みに炭火を乗せオーバーヒート状態にするための加熱用鍋などが、手間のかかる調理作業に用いられました。当時の宮廷では5000人に上る人々が働いて…
 
宮廷銀器・食卓調度コレクションの最初の部屋には、王朝時代に製作された樫の木のショーケースが並んでいます。その中には、当時のウィーン、ハンガリー、ボヘミアの磁器工房で生産されたセットの一部や、個々の食器、更にボヘミアで生産された白地に金模様の衛生用磁器などが見られます。注目に値するのは、様々なカット・パターンによる美しいグラス・シリーズで、これはウィーンの老舗ロープマイヤーで生産されたものです。グリーンのグラスは、ライン地方で生産されたワインに用いられました。部屋の中央にあるショーケースには、皇帝家の銀製ナイフ・フォーク・セットが見られます。これらのセットは、現在も国賓を迎える公式ディナーに用いられています。最初の大規模なシリーズは、1837年以前にシュテファン・マイヤーホーファーが生産したも…
 
中央のショーケースには、王宮の洗濯所で保管されていたテーブルクロス類が見られます。1872年に至るまで、宮廷のテーブルクロス類は、様々なスタンプとクリーム色で区別されていました。その後、モノグラムと冠が刺繍されるようになりました。古い時代の入浴用布類とシーツ類は、もっぱら上質の白いリンネル製でした。漸く19世紀末にピケ製品が登場、その後イギリス製のタオル類も用いられるようになりました。ショーケースに展示された様々の磁器には、時代とともに変遷するスタイルや好みの流れが示されています。19世紀前半、皇帝フランツI世とフェルディナントI世の時代、日常の食器類には殆ど変化がありませんでした。いずれも清楚な白地の磁器で、滑らかな金色の縁取りが見られます。ただ、皇帝を象徴する双頭の鷲には、夫々の時代のモ…
 
1876年にエリーザベト皇后は、オーストリア皇帝家のメンバーとして初めて、現代的なバスルームを導入しました。それ以前には、今日見られるようなバスルームは全く無かったのです。この年以降も大半の宮廷人は、洗面器、水差し、足を洗うための桶、髭そり用のカップ、石鹸箱、夜間用の便器などで、間に合わせていたのです。展示品は同一のシリーズ製品ではありません。大半は白い磁器に金の縁取りや黄金の鷲で飾られていました。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
ここで興味深いのは、英国ミントン工房の食器セットで、エリーザベト皇后からフランツ=ヨーゼフ皇帝に贈られ、狩猟の際、オッフェンゼーの館で用いられました。これらは1870年にウィリアム・コールマンがデザインしたもので、昆虫、鳥、海の動物や植物が描かれています。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H. による
 
銀器・食卓調度コレクションで、疑いも無く最も重要な展示品に数えられるのが、グラン・フェルメイユです。フランスにおける金細工の最高峰を示すこのセットは、当初40点の食器からなるものでした。これに1850年頃ウィーンの銀工房で追加品が制作され、食器は140点となりました。今日、この豪華なセットは4500点の食器からなり、重さも1トンを越えるものです。全て銀器に熱金メッキを施したもので、この技法がフランス語で「フェルメイユ」と呼ばれています。このセットにまつわる物語も興味深いもので、ナポレオンの出世から失脚に至る運命と密接に結び付いています。1808年に注文された豪華なセットの注文主は、ナポレオンの義理の息子ユジーヌ・ド・ボーアルネと考えられています。制作を担当したのは、パリのマルタン=ギョーム・…
 
ここは、かつての王宮銀器・食卓調度保管室の所蔵品を展示する最後の部屋です。中央ショーケースには、銀製の皿、プレート、ボウル、キャセロール、テリーヌなどが展示され、当時、宮廷の日常生活に用いられた銀器の多種多様な内容を紹介しています。大量の銀から生産された食器類は皇帝の紋章で飾られ、清楚で優雅なデザインが印象的です。ウィーンの宮廷では専ら銀と金の食器が用いられたので、膨大な量の銀器が保管されていました。1710年以降ヨーロッパでも生産されるようになった磁器は、長らく、スープとデザートにのみ使用され、他の全ての料理は銀の食器で供されました。漸く19世紀の間に、家族的な食卓では磁器が次第に一般的となりました。脇のショーケースには、金メッキの装飾品が見られます。タンブールと呼ばれる菓子容器、ブロンズ…
 
「ホーフフォルム」と呼ばれる歴史的な食器シリーズは、ウィーンの磁器工房で生産され、王朝が消滅してからも2000年まで、公式の国家的ディナーに用いられました。かつて宮廷の食卓で料理に用いられた銀製の皿は、共和国では単なる受け皿となりました。これに代わって、共和国では「国賓用セット」と呼ばれる磁器が料理用の食器となりました。優雅な金の縁飾りをつけた白地の食器には、黒・赤・金で双頭の鷲が描かれています。技術的な特徴は、1855年頃考案されたリトグラフによる絵付け法で、金やその他の色彩で模様が付けられています。こうして合理化されたシリーズ製品では、筆による絵付けが姿を消しました。磁器類に、ヨーゼフ=カール・クリンコシュの生産した銀のナイフ・フォークと、ロープマイヤー製のグラスが加わると、国家的ディナ…
 
エリーザベト皇后はギリシャのコルフ島にヴィラを建て「アキレイオン」と名付け、現地への船旅には、大型ヨット「ミラマーレ」号を愛用しました。このヨットでは、アルパカ銀と呼ばれる銀メッキの食器セットが用いられていました。これは、1890年頃ベルンドルフのアルトゥール・クルップ商会で生産されていた通常のセットです。刻み込まれた盾の紋章と、皇帝の冠をつけたイルカのみが、注文者の身分を示しています。ショーケースの反対側には、この名高いイルカをあしらった品々が見られます。つまり、イルカの模様は、皇后のギリシャ滞在に用いられた製品の「ロゴ」となったのです。ここに展示されている別の食卓セットは、トリエステの銀細工師がアキレイオンのため制作したものです。 www.hofburg-wien.at | Downlo…
 
1838年、フェルディナント皇帝がロンバルディア=ベネト国王として戴冠する際、歴史的なミラノのセンターピースが注文されました。これは銀器コレクションの中で最も大規模なアンサンブルで、鏡のように光り輝く品々を並べると30メートル以上になります。中央の作品には、城壁の上部と豊穣の角をあしらったロンバルディアのアレゴリー、総督の帽子をかぶったヴェネチア、聖マルコを象徴するライオンなどが見られます。周辺部には、踊る聖霊と燭台が交互にあしらわれています。この見事なセンターピースの前で、当時のディナーの模様をご想像ください。豊かに盛り付けられた花の数々、様々の果物、カラフルなボンボンなどの並ぶテーブルは、極めて豪華なものでした。人物像など古典主義的なアレゴリーは、バロック時代からのテーブル装飾の伝統です…
 
ウィーンの宮廷には、何世紀にも及ぶ伝統がありました。復活祭前の聖木曜日に、皇帝は12人の男性の足を洗い、皇后は12人の女性の足を洗いました。これは、キリストが12使徒の足を洗った故事に因むものです。このセレモニーには、貧しい人々の中から清潔な高齢者が選ばれました。四旬節の伝統的な料理による食事が供され、選ばれた人々にはプレゼントが贈られました。その内容は、ワインを入れた陶器製の蓋付きジョッキ、双頭の鷲と年齢を刻んだ銀の杯、料理、30枚の銀貨を入れた袋でした。これは、イスカリオテのユダが、銀貨30枚でキリストを売り渡した故事に因んでいます。儀式に用いられた金の洗面セット2組は、18世紀にアウグスブルクの銀細工師が制作したものです。このセットは、ハプスブルク家の人々の洗礼、公式のディナーにおける…
 
このディナー・セットは以前「ラクセンブルク・セット」と呼ばれたもので、1824年、フランツ=カール大公とバイエルンの王女ソフィーの婚礼に際して、ウィーンの工房で制作されました。この二人が、フランツ=ヨーゼフ皇帝の両親です。18世紀末、花婿の父である皇帝フランツI世は、ウィーン郊外のラクセンブルクに、ハプスブルク家の夏の離宮フランツェンブルクを建て、ハプスブルク王朝の記念碑としました。この離宮には、等身大の彫像、肖像画、紋章、ガラス絵などで、一族の歴史が描き出されています。王朝の歴史はディナー・セットにも表現されています。ハプスブルク歴代の支配者と夫人の肖像や紋章に加え、「廃墟の皿」と呼ばれる60枚の皿には、ハプスブルク王朝ゆかりの古城や砦が、ロマンチックなタッチで描き出されています。ネオゴシ…
 
このセットは、かつてフェルディナント=マックス大公の所蔵品で、トリエステ郊外のミラマーレ城にありました。フランツ=ヨーゼフ皇帝の弟である大公は、1854年、帝国海軍の総司令官となり、1864年には招請に応じてメキシコ皇帝に即位しました。けれどもマクシミリアン皇帝は国内の混乱を収拾することが出来ず、1867年ベニト・フアレス率いる共和国軍に捕らえられ、戒厳令のもとで銃殺されました。この物語は、皇帝の部屋見学コースでも、ご紹介申し上げます。ディナー・セットは、ハンガリーのヘレンドで生産されました。ヘレンド磁器は、中国製磁器のコピーを出発点に発展したものです。マクシミリアン皇帝は1864年、チャプルテペックの離宮で用いるため、このディナー・セットを注文しました。1867年、ヘレンド磁器工房の所有者…
 
白と金のディナー・セットは、1851年、フェルディナント皇帝のため購入されました。国民から「善良な皇帝」と呼ばれたフェルディナントは、1848年の革命に際して甥のフランツ=ヨーゼフに帝位を譲り、プラハの王宮に移り住み、1875年に世を去りました。こうした背景から、プラハ王宮の調度品を新調するため、ボヘミアのクレステーレにあったトゥン伯爵家の磁器工房に、白と金のディナー・セットが注文されたのです。デザインは、当時の最先端を行くものでした。それ以前のビーダーマイヤー時代には、明快な直線を強調するデザインが一般的でした。ところが19世紀の半ばになって嗜好が変わり、ソフトでエレガントな曲線が主流となりました。豪華な黄金の装飾は、王朝の栄光を求める時代の潮流と合致するもので、この傾向はウィーンの王宮で…
 
1848年の革命後、戴冠した若きフランツ=ヨーゼフ皇帝の宮廷に新たな調度品を整えるため、1850年から51年にかけて パリに注文が出されました。これは「新しいフランス風センターピース」と呼ばれています。ブロンズに金メッキのセンターピースは、その豪華な装飾で、他のセンターピースを遥かに上回っています。巨大な燭台は、つる草や巻貝のようなロカイユ模様で飾られ、プットたちが遊び、野生動物や鳥たちが躍動しています。若きフランツ=ヨーゼフ皇帝が常時、顧問官や大臣をディナーに招待したため、こうした大規模なセンターピースが必要となったのです。皇帝の母君であるソフィー女大公の影響で、宮廷にはバロックやロココが再導入され、この傾向は、とりわけ部屋の内装や家具類に顕著でした。食卓調度にも、旧体制への復帰が反映して…
 
緑のリボンが鮮やかなディナー・セットは、フランス王ルイ15世からマリア=テレジア女帝へのプレゼントでした。これは大きな犠牲者を出したオーストリア継承戦争以来の敵対関係を克服し、新たな友好関係を築くための第一歩だったのです。波打って交差する緑のリボンがセットの主な装飾で、そのパターンはバロック時代の金細工に遡るものです。リボンの合間には、画家フランソワ・ブーシェの作品に基づく、繊細なロココ風シーンが描かれています。これらは、愛、ポエジー、音楽、絵画、彫刻などを象徴し、あるいはホーマーからモリエールに至る世界文学をテーマとしています。このセットは、1738年フランスのセーブルに設立された王立磁器工房の傑作のひとつです。フリットと呼ばれる特別の素材は壊れやすいのが難点ですが、低音で焼き上げると、極…
 
1777年、皇帝ヨーゼフII世は、フランス王家に嫁いだ妹マリー=アントワネットを訪問しました。ヨーゼフ皇帝の帰国に際して、500点に上る高価なセーブル磁器の数々が、オーストリアにもたらされました。その中には、明るいグリーンのディナー・セットや、4点の見事なテリーヌが含まれていました。テリーヌのうち3点は今日に伝えられています。オリオと呼ばれる濃厚なスープ用の丸いテリーヌと、他のスープ用テリーヌには、優雅なカーブの4つの脚部が付けられ、受け皿の上に置かれています。いずれも金色の穂で飾られ、円形のスペースには、果物、農産物、花、卵、海産物、園芸用品、農具などが描かれています。いずれも、多産と実り豊かな農作業を象徴するものです。 www.hofburg-wien.at | Download Tou…
 
ファンタジー豊かなフォルムを生み出すナプキン折りの技法は、残念ながら姿を消そうとしています。扇、魚、貝殻、スワン、アヒル、花など複雑に折りたたまれたナプキンは、とりわけバロック初期にディナーの装飾として珍重されました。これらの形が折り出されるためには、きめ細かい高級リンネルを素材とする特定サイズのナプキンが必要です。これに利用される皇帝家のナプキンは縦横1メートルの大きな正方形です。王宮には今日も、17世紀から伝えられる芸術的な折り方見本の数々が残されています。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
黄金のディナー・セットは、宮廷に残された最も豪華な磁器セットです。12人用のセットの全てが光沢のある金でコーティングされ、部分的には内部や裏側にも金が使用されています。エレガントな艶消しの模様は、古典古代の装飾タイルにヒントを得たものです。ウィーン磁器工房の傑作に数えられる黄金のディーナ・セットは、1814年に制作されました。これは、当時の歴史的事情によるものです。ナポレオン戦争の時代、国家的ディナーに用いられる金の食器は、殆ど熔かされ金貨となりました。その後1814年、フランツ皇帝のパリ滞在中、ウィーンで戦後処理に関する国際会議の開かれることが確定的となりました。ところが、金の食器は殆ど残っていませんでした。このため、少なくとも視覚的には公式ディナーに相応しい代替品を揃えるため、急遽、黄金…
 
1710年ドイツのマイセンにヨーロッパ最初の磁器工房が設立され、この工房は、その後長らくトップの座を保ち続けました。ここに見られるマイセンのディナー・セットは1775年頃の作品で、豪華な花柄が印象的です。そのフォルムと装飾には、バロック様式と歴史主義の要素が見られます。ふっくらしたテリーヌを飾る果物の図柄は、まだバロック時代の特徴を示していますが、壊れた果物カゴには、古典古代の装飾を取り入れた歴史主義への移行が見られます。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
1838年、フェルディナント皇帝は、ロンバルディア=ベネト王国の国王となりました。ミラノでの戴冠式に際して、このセンターピースがパリに注文されたのです。生産者は不明です。当時、宮廷から外国に大口の注文が出される場合、注文は極秘で出されるか、宮廷長官を通じて行われるのが常でした。これは、ウィーンの生産者とのトラブルを避けるための方策だったのです。センターピースは、ブロンズに金メッキされたものです。鏡のように磨かれたプレートは、燭台に立てられたロウソクの光を反映し、照明効果を高めました。装飾の彫刻や軽やかな唐草模様が、優雅な雰囲気を生み出しています。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Ku…
 
1718年ウィーンで設立された磁器工房は、マイセンに続きヨーロッパで2番目に古いものです。当時人気の高かった磁器は、コレクションのための高価な贅沢品でしたが、皇帝家のディナーには不適当と考えられ、デザートにのみ使用されていました。その後、1800年前後のナポレオン戦争時代、宮廷銀器が貨幣に改鋳されると、事情が一変しました。1803年、フランツ皇帝は、120点からなる磁器のディナー・セットを注文しました。60枚の絵皿には、「パノラマの皿」と呼ばれる24枚の豪華なスープ皿が含まれています。絵柄には、ロマンチックで愛国的なモチーフが選ばれました。金色の縁飾りの中には、火を噴く火山、アルプスの氷河風景、ウィーンの建築などが見られます。夫々の皿には、古い銅版画をモデルに、最高の絵付師によって、オースト…
 
アトリウムには「タンブーレ」が展示されています。これはブロンズに金メッキしたもので、ボンボンを盛り付けてディナーのテーブルを飾りました。これは、若きフランツ=ヨーゼフ皇帝の時代に制作された「新しいフランス風センターピース」のひとつです。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H. による
 
銀器コレクションには、1700年頃の東アジアの磁器を集めたユニークなコレクションがあります。これはロートリンゲン公カール=アレクサンダーの収集したものです。カール=アレクサンダーは、マリア=テレジアの夫君フランツ=シュテファン皇帝の弟で、1744年、マリア=テレジア女帝の唯一の妹マリア=アンナと結婚しました。結婚後、夫妻はブリュッセルに移り、カール=アレクサンダーはハプスブルク領ネーデルランドの総督となりました。ここで彼は、熱心な美術コレクターとして膨大な作品を集めましたが、同時に借金額も膨大なものとなりました。彼の没後は、甥の皇帝ヨーゼフII世が遺産を整理し、ブリュッセルのコレクションの大半は競売にかけられました。もちろん、高価な伊万里磁器は、ウィーンの宮廷に移されました。崖の風景を示すセ…
 
ケースに収められたナイフ・フォーク類は、マリア=テレジア女帝の極めてプライベートな日用品のひとつです。これは女帝のため特別に仕上げられ、実際に彼女が使用し、宮廷でも旅先でも必ず食卓に登場しました。セットの内容は料理用ナイフ・フォーク、サービス・フォーク、スプーンで、更にエッグカップ、卵の殻割り付きエッグスプーン、塩入れもセットされていました。素材は純金で18世紀半ばに制作されたものです。漸く18世紀末から、大規模なシリーズ製品が開発され、12人用、24人用、36人用などのセットが生産されるようになりました。この数字は12使徒に因んだものです。こうして皇帝一族の間でも、個々に仕上げられた特別品に代わり、同一デザインでシリーズ生産されたナイフ・フォーク類が、一般的となりました。 www.hofb…
 
古い時代の銀器セットが全く残っていないのには2つの理由があります。第一の理由は、銀器が常に厳しく点検されたためです。使い古されたり流行遅れになった食器は熔かされて、新たな食器に作り変えられたのです。第二の理由は、財政危機の場合に食器も銀貨に変えられたためです。とりわけ18世紀末からナポレオン戦争の時代には、軍事費調達のため、オーストリアに存在した殆どの銀製品が貨幣となりました。宮廷の調度品も、言わば戦争の犠牲となったのです。銀貨となった食器に代わって、ウィーン磁器工房の製品が導入されました。漸く1830年から1835年以降、少しずつ銀器が補充されるようになりました。先ずシュテファン・マイヤーホーファーに注文が出され、その後は「マイヤーホーファーとクリンコシュ」商会、あるいはヨーゼフ=カール・…
 
ここに見られるのは英国ミントン工房のデザート・セットで、これは1851年ロンドンにおける万博でも、とりわけ豪華な展示品のひとつでした。116点からなる磁器セットは、その優れた芸術的仕上げで、賞を得ています。このセットをヴィクトリア女王が買い上げ、その一部をイギリスとオーストリアの友好のしるしとして、フランツ=ヨーゼフ皇帝にプレゼントしたのです。上薬無しで素焼きした人物像とイギリス風クリームソースのカップは、オーストリアの宮廷では全く利用されませんでした。この豪華なセットは、非常に壊れやすい素材のため、実際の使用には向かなかったからです。ここで銀器コレクションの見学コースが終わります。2階の「シシィ・ミュージアム」と「皇帝の部屋見学コース」で、フランツ=ヨーゼフ皇帝とエリーザベト皇后の生活空間…
 
皇帝の階段には、豪華な漆喰装飾と、金メッキを施した銅の花瓶が見られます。フランツ・ヨーゼフ皇帝も、この階段を利用していました。ホーフブルク王宮は600年以上、ハプスブルク皇帝の居城であり、神聖ローマ帝国の政治的中枢部でした。王宮は政府所在地であり、行政センターであると同時に、皇帝一家の冬の居城だったのです。宮廷の人々は18世紀以降、夏の期間を主にシェーンブルン宮殿で過ごしました。ようこそ!これから、ウィーン・ホーフブルク王宮の皇帝の部屋見学コース、シシィ・ミュージアム、銀器コレクションに、ご案内申し上げます。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsg…
 
1854年4月、バイエルン公爵家の姫君エリーザベトがウィーンに到着しました。まだ16才の彼女は、従兄のフランツ=ヨーゼフ皇帝と結婚することになっていたのです。婚礼の後、ホーフブルク王宮を住まいとした彼女は、突然、オーストリアの宮廷生活と直面することになりました。 これからシシィ・ミュージアムにご案内申し上げましょう。次の6つの部屋で、シシィをめぐる神話と真実をご覧ください。 写真撮影は禁止されていますので、ご了承ください。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
1898年9月10日、悲報がヨーロッパに広がりました。オーストリアのエリーザベト皇后が暗殺されたのです。 エリーザベト皇后の暗殺事件は、周囲から誤解された類稀な女性の波乱に満ちた生涯に終止符を打つものでした。他方、彼女の悲劇的な死は、シシィをめぐる伝説形成に決定的な役割を果たしました。もちろん彼女自身も、存命中の型破りな生活によって自ら伝説を生み出しました。伝説は、どのように形成されたのでしょうか?天衣無縫に育った美少女が、いかにして、人生に失望し死に憧れる放浪者となったのでしょう?これから私たちも、エリーザベト皇后の魂の遍歴をたどりましょう。第二の通路 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrun…
 
前後のボードに展示された新聞の切り抜きは、当時の新聞に掲載された皇后に関する報道を集めたものです。ここから明らかなのは、存命中の彼女が、決して愛され親しまれ新聞のトップを飾る存在ではなかったことです。エリーザベトは、早くから皇后たる公的役割を避け、晩年はウィーンで過ごすことも稀で、殆ど報道されることはありませんでした。また、王朝時代の新聞は厳しく検閲されたので、皇后に対する批判なども不可能でした。他方フランツ=ヨーゼフ皇帝は、勤勉に自らの責務を果たし、「善良な老皇帝」として国民に親しまれていました。従って皇后暗殺の報道においても、国民の同情は、次々と不慮の事故で身内を失った皇帝に集中していました。人々から敬愛される献身的なエリーザベト皇后のイメージは、暗殺事件以降に形成され、この虚像が後世に…
 
エリーザベト皇后の存命中、人々は、身を引いて暮らす「風変わりな」皇后に全く無関心でした。漸く彼女の没後、テロリストに暗殺された悲劇の美女というイメージのマーケッティングが可能となりました。彼女の面影を偲ぶ記念の肖像画、記念のコイン、その他様々の記念品が急速に普及しました。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H. による
 
エリーザベトの没後、数多くの記念碑が建てられました。ウィーンに先立ってブダペストでは、エリーザベト女王記念碑のため、既に1901年と1902年、2回のデザイン・コンクールが開催されました。この活動や、ザルツブルクにおける同様の動きに刺激され、ウィーンでも記念碑建設委員会が設けられました。相応しい設置場所をめぐって意見が食い違う中、皇帝は、国民庭園を選びました。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H. による
 
ザルツブルクで制作された控え目な立像にヒントを得たのは、ウィーンの彫刻家へルマン・クロッツで、彼は、立像に動きを加えました。「気品に満ちて優雅に歩む皇后」は、等身大のほか小型の彫像としても制作されました。クロッツのエリーザベト像は高く評価され、小型の彫像は、シェーンブルン宮殿の皇帝の執務室にも飾られていました。 ここに置かれた等身大の立像は、皇后の娘婿であるフランツ・サルヴァトール大公から共和国へ寄贈されたものです。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
とりわけ、彼女の物語が映画化されヒットすると、愛される「シシィ」のイメージが全世界に広がりました。その典型的な例は、1950年代にエルンスト・マリシュカが制作した3部作で、シシィを演じたロミー・シュナイダーは一躍、映画界のスターとなりました。この映画に登場する、若く屈託の無い愛すべきシシィのイメージは、当時から今日に至るまで広く普及しています。けれども、歴史上のシシィと合致するのは、映画のごく一部に過ぎません。これから、歴史上のエリーザベトを訪ねることにいたしましょう。第一室 少女時代 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
エリーザベトは1837年12月24日、ミュンヘンで生まれました。父はバイエルン公爵マクシミリアン、母はバイエルン王の娘ルドヴィカです。家族からシシィの愛称で呼ばれたエリーザベトは、多くの点で父親に似ていました。庶民的な公爵は、自然を愛し、熱心な馬術愛好家で、好んで旅に出掛けました。少女時代のシシィは、ミュンヘンの宮殿とシュタルンベルク湖畔のポッセンホーフェン城に住み、堅苦しい宮廷の作法や儀式とは無縁に伸び伸びと育ちました。2才年下の弟カール・テオドールは、家族の間で「ガッケル」と呼ばれていました。エリーザベトは生涯にわたって、この弟と特に親密な関係にありました。左手のショーケースには、姉弟を描いた水彩画が見られます。この絵でエリーザベトが着ている子供服のレプリカも、この部屋に展示されています…
 
1853年夏、シシィの母と、ネネの愛称で呼ばれた姉ヘレネがバート・イシュルへ向かい、シシィも同行しました。これはフランツ=ヨーゼフ皇帝の23才の誕生日を祝うためでしたが、本当の目的は、姉妹である双方の母親が計画した皇帝の花嫁選びでした。2人の母親の計画では、フランツ=ヨーゼフとネネが婚約するはずでした。母親の予定とは裏腹に、フランツ=ヨーゼフ皇帝は15才のシシィに一目惚れしたのです。 こうしてフランツ=ヨーゼフはシシィに求婚しました。返事を求められたシシィは、わっと泣き出しました。「どうして、彼は私のことばかり考えるのでしょう。私は取るに足らない人間です。私も皇帝が大好きです。ああ、彼が皇帝でなかったら良いのに! 8月19日には、正式の婚約式が行われました。突然人々の視線を一身に集めたシシィ…
 
イシュルでの婚約後、バイエルンに戻ったシシィのため、早速婚礼の準備が始められました。 先ずシシィは、オーストリア皇帝の妃として必要な知識や作法を学ばねばなりませんでした。これとともに、ウィーンの宮廷に対するシシィの不快感と恐怖も強まりました。彼女は、バート・イシュルでの婚約とともに、世界史の舞台に押し出され、プライベートな自由を失ったことに気付いたのです。 エリーザベトの衣装で、今日まで保存されているものは僅かです。そのひとつが、いわゆるポルターアーベントのドレスで、ここに展示されているのは複製です。オリジナルは美術史博物館にありますが、保存上の問題のため、もはや一般には公開されていません。エリーザベトはこの見事なドレスを、ウィーンへ旅立つ前の送別会に着用したものと考えられています。興味深い…
 
1854年4月24日の婚礼とともに、エリーザベトにとって全く新たな人生が始まりました。厳格な式典の数々、大群衆の視線と期待の重圧が、彼女を押しつぶしました。皇后としての最初の公式レセプションで、すっかり消耗した彼女は、涙の発作に襲われ広間を去りました。フランツ=ヨーゼフには、シシィと過ごす時間が殆ど無く、彼女は、たちまち深い孤独に陥りました。 エリーザベトも当初は、彼女に寄せられた期待を満たそうと努力しました。皇帝夫妻は4人の子供をもうけましたが、長女のソフィーは早くも2才で夭折しました。エリーザベトは絶望しましたが、自らの感情を押し殺さねばなりませんでした。皇后としての公式の役割の方が、個人的な感情より重視されたからです。 www.hofburg-wien.at | Download To…
 
壁には、画家ゲオルク・ラープの作品が見られます。これは1879年、皇帝夫妻の銀婚式を記念して制作されたもので、名高いルビーのアクセサリーが描かれています。これは、もはや存在しないハプスブルク家の財宝のひとつでした。絵の横の展示台に見られるのはレプリカです。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H. による
 
若き皇后は、不眠症、食欲不振、長く続く咳に悩まされるようになりました。肺病を恐れた医師の勧めにより、彼女はマデイラ島で転地療養することになりました。こうしてシシィは結婚以来初めて、あらゆる責務から解放され、堅苦しい宮廷を遠く離れて、自らの生活を楽しむ機会を得ました。 2年間の転地療養中に奥深い内的変化を体験したエリーザベトは、全く別人としてウィーンの宮廷に戻りました。愛らしく臆病で塞ぎがちな少女は、自覚と誇りに満ちた美女となったのです。この時期、画家フランツ=クサヴァー・ウィンターハルターが一連の肖像画を制作しました。疑いも無く最も有名なのは、1865年に制作された肖像画です。エリーザベトは「星のドレス」と呼ばれる豪華な舞踏会衣装を着け、ダイアモンドをあしらった星型の髪飾りが印象的です。 エ…
 
エリーザベトは、その美貌を武器として繰り返し、自らの願望を実現しています。一般的に彼女は、現実の政治には無関心でしたが、生涯に一度だけ、夫の政務に介入しました。彼女の願いは、ハンガリーを解放することだったのです。 エリーザベトは、快活で誇り高いハンガリー人に深い親愛感を抱いていました。1849年に革命運動が鎮圧された後ハンガリーは、ハプスブルク皇帝の絶対主義的支配に苦しんでいました。こうした背景から、彼女は熱烈なハンガリー支持者となり、ハンガリーの主導的政治家とも親交を結んでいました。1866年、フランツ=ヨーゼフはハンガリーとの調停に踏み切り、その歴史的権利を承認して王朝内での独立を認めました。こうしてオーストリア=ハンガリー帝国が成立しましたが、その背後には疑いも無く、エリーザベトの尽力…
 
ハンガリー女王として描かれたエリーザベト皇后の肖像画の前に、もうひとつのドレスが見られます。これは、戴冠式に着用されたハンガリー女王の正装です。これは、パリのオートクチュール「ワース」で仕上げられたものです。 マーチャーシュ教会での戴冠式を終えたフランツ・ヨーゼフとエリーザベトが、群集の前に姿を現すと、万歳を意味する「エーヤン」の歓声が沸き起こりました。他方エリーザベトは、素早く公衆の面前から姿を消しました。これは、重い戴冠式のドレスから、軽いチュールのドレスに着替えるためでした。 展示台には、ハンガリー女王戴冠式に用いられたアクセサリーのレプリカが見られます。オリジナルは、もはや存在しません。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) …
 
エリーザベトは、嫌々ながら皇后としての責務を果たしました。公的な場に出るのは不愉快で、宮廷のセレモニーは重圧でした。更に彼女は、ウィーン宮廷の堅苦しい身分制度と陰謀を嫌悪しました。公的な場に出席するとシシィは、彼女自身の言葉によれば「馬具を付けて引き回される馬」のような苦痛を感じたのです。第三室 逃避 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H. による
 
皇后はウィーンの宮廷を避け、スポーツ、美容、旅へと逃避しました。 幼少期からエリーザベトが大きな情熱を傾けたのは乗馬でした。既に少女時代、彼女は父親から曲乗りを学びましたが、今や厳しいトレーニングを重ね、当時のヨーロッパでトップを行く最も大胆な女性騎手となりました。彼女の冒険的な乗馬は、しばしば可能な限界に迫るものでした。明らかにエリーザベトは、乗馬という高度のスポーツ分野において、自らの限界に迫ろうとしたのです。その際、彼女は意図的に、極めて危険な場面に身を投じました。 www.hofburg-wien.at | Download Tour-Guide (PDF) © by Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.…
 
エリーザベトは、当時のヨーロッパで最も美しい女性のひとりとされ、しかも、このことを十分自覚していました。日常生活の大半の時間は、その美貌を守るために費やされたのです。エリーザベトが特に自慢としたのは、殆ど踝(くるぶし)に届く豊かな髪でした。この髪をとかし編み上げるには、毎日2~3時間が必要でした。 人々から賛嘆された美貌を守るため、エリーザベトは数々の美容法を試みました。彼女は、非常に奇抜な方法をも積極的に実行しています。例えば、皮製のマスクに当てた子牛の生肉でパックしたまま睡眠しました。 エリーザベトは、彼女のスリムなボディーラインを保つため、最大限の努力を払いました。このため、身長172センチの彼女の体重は、生涯45キロから47キロに留まりました。ウエストも、51センチという驚くべき細さ…
 
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