南流山 公開
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最高の 南流山 ポッドキャストが見つかりました。 (アップデートされました 8月 2020)
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アップデートされました 8月 2020
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バイリンガルの礼拝メッセージです。You can hear message.(English-Japnese)教会に行ったことがない人も、気軽に聞いてみませんか?ipodをお持ちの方はこのボタンからも聞けます。If you have ipod, please click this button. (iTunesが立ち上がります。iTunes starts.)IBFサイトはこちら
 
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show series
 
今回は、「これはわたしの契約の血です。」(マルコ14:24)からのメッセージです。 弟子たちとの最後の晩餐でのイエスの言葉です。最後の晩餐の背景に過ぎ越しの祭りがあることを今日のメッセージで語っていきたいと願っています。加えて、ベタニアのマリアの感謝とイスカリオテ・ユダの裏切りについても言及していきたいと思っています。マルコ14章1-25節を読んでいただきたい。 3節からは、イエスに香油を注ぐ女性が登場する。「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」と書かれている。頭に香油を注ぐ行為は、祭司や王の就任の時にする行為である。この女性の行為は、イエスこそ王であるとの思いがあったと理解することもできるし、持て成しや感謝の現れ…
 
今回は、「目をさましていなさい。」(マルコ13:37)からのメッセージです。終末について語られるイエスが、弟子たちに向かって、話の最後に語りかけることばである。恐れや、心配の中にもう生きる必要はない。イエスが語られる言葉を整理して、終末にどんなことが起こっても、イエスをしっかりと見上げながら、希望をもって生きて行こうではないか。そのような思いを今日皆さんに分かち合いたいと願っています。少し長い箇所ですが、マルコ13章を読んでいただきたい。まず、13章全体の内容を簡単に皆さんに分かち合って行きたいと思う。 当時の宮の美しさ、建物のすばらしさに弟子たちは声を上げる。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と。するとイエスは彼らに言われる。「この大きな建物を見てい…
 
今回は、「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる」(マルコ12:37)からのメッセージです。十字架を前にして、行いによる救いから、信仰による救いへと、新しい時代が訪れようとしている。その時点で語られたイエスの思いを受け取っていきたいと願っています。今日も、3つのポイントを取り上げます。まず、マルコ12章35-44節を読んでいただきたい。 最初に、イエスは群衆に向かって言われる。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」(35―37…
 
Intro Good morning, brothers-and-sisters in Christ. It's good to see your faces this morning. Even though I only see part of your face! Though we have started meeting physically again, things are not the same as before. Both leaders and members alike have to figure out how to be a church in the midst of COVID-19. Once you start discussing this topi…
 
今回は、「あなたは神の国から遠くない。」(マルコ12:34)からのメッセージです。この言葉は、イエスと律法学者との会話の一節であるが、当時の律法学者の中にも、イエスの教えを正しく理解しようとした方がおられたことは実に嬉しいことである。まず、イエスの受難週の出来事(議論)を3つ取り上げる。その中の一つに、本日のテーマが含まれるが、律法の中で、たいせつな戒めはどれですかとの問いかけにイエスがどう答えたか、ご一緒に考えてみたいと思っている。まず、マルコ12章13-34節を読んでいただきたい。 最初に、パリサイ人とヘロデ党の者数人との議論がある。彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、会話を始める。彼らの質問は、カイザルに納める税金についてである。パリサイ人は、ローマに納めるこの税に反対…
 
今回は、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」(マルコ12:10)からのメッセージです。 群衆に熱狂的に迎えられてイエスはエルサレムに入場することとなる。入場後にまず、イエスは宮きよめをする。イエスに敵対心を抱いていた当時の指導者たちとの衝突はますます明白になって行く。イエスはたとえを用いて自分の十字架での死を暗示していく。イエスの死と復活こそが、新しい時代、教会の時代が来ることを暗示する、それが今回のメッセージのテーマになっています。まず、マルコ11章15ー18節を読んでいただきたい。 エルサレムの神殿での礼拝は、犠牲として動物をささげることが中心であった。異邦人の庭と呼ばれた外庭には、いけにえ用の動物が売られ、神殿税や献金を納めるための両替人の台も多く置かれていたようで…
 
Reflection on James 4:13-17 Intro Good morning, brothers and sisters. I pray that you are well, even though your daily life has been affected by COVID-19. I’m sure the virus affected your plans. Some of you had to cancel your travels this year, whether it was a holiday, a business trip, or going to another prefecture. This is especially true for fo…
 
今回は、「主がお入り用なのです。」(マルコ11:3)からのメッセージです。 マルコ11章からは、受難週の記事がはじまっていく。その最初の出来事がエルサレムへの入場である。それも馬ではなく、ろばの子に乗って入場される。旧約聖書のゼカリヤ9章9節には、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」とある。イエスのエルサレム入場は、この旧約聖書の預言の成就として行われていく。あなたの王とは、メシア、キリストのことで、キリストが平和の王として、ろばの子に乗って入場されたことは実に興味深い。マルコ11章1-11節までを読んでいただきたい。 イエスはふたりの弟子…
 
今回は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(マルコ10:52)からのメッセージです。エリコで盲人であったバルテマイの信仰について考えてみます。そして、このバルテマイに自分たちの信仰を重ねて、イエスに感謝する者、イエスに従う者とさせていただきたいと思います。マルコ10章46-52節を読んでいただきたい。まず、この出来事の文脈的な意味を考えてみよう。イエスの一行はエルサレムに上る途中である(32節)。イエスは弟子たちに、自分は十字架につき、三日の後に、よみがえることを語る(33,34)。以前皆さんにシェアーした事であるが、皆さんは覚えておられるだろうか。マルコ10章45節には、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自…
 
今回は、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:31)からのメッセージです。行いによって天国に入ろうとする者は後にされ、信仰と恵みによって天国を待ち望む者が先にされる、その真理が明らかにされる聖書の箇所です。このような表現をイエスが他のところでも使っておられます。興味ある方はマタイ20章16節、また、ルカ13章30節を見ていただきたい。今回のメッセージは、前回のメッセージに続いていて、行いによって天国を求めた金持ちをは後にされ、むしろ子供たちのような心をもってイエスを信じる者こそ先にされる、そのような理解が背景にある。あなたもイエスの語られる真理に気付くならば、もっとキリストとの人格的な交わりを喜び、神の恵みを感謝する人生に目が開かれて行くものと私は信じる。…
 
今回は、「どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10: 27) からのメッセージです。人は自分を救うことはできないが、ただ、神のみが人を救うことができる。そのメッセージがこの言葉に隠れています。マルコ10章45節には、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とある。贖いの代価とは、奴隷を自由にするために支払う身代金のことを意味する。イエスが、贖いの代価、つまり罪の奴隷となっている人間を解放して、神のものとするために支払う身代金を支払ってくださること、それが十字架での犠牲であることが明らかにされている。イエスこそ、私を、そしてあなたを、救うことのできる方であることを今回は語って行…
 
今回は、「もはやふたりではなく、ひとりなのです。」(マルコ10:8)からのメッセージです。結婚についてのイエスの言葉です。マルコ10章1-12節を読んでいただきたい。前回は、「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。」からメッセージを語ったが、イエスは、その後で互いに和合して暮らしなさいとつけ加えている。塩けを保つことと和合して暮らすバランスが強調されていた。結婚もそのような夫婦間のバランスが必要であることに気づかされる。 まず、聖書の文脈を見てみよう。2節には、「パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。」とある。当時のパリサイ人の理解は2つに分かれていたようである。1つは、妻の不貞(姦淫)の事実が発見され…
 
今回は、「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。」(マルコ9:50)からのメッセージです。 この世で生きるクリスチャンの自覚を呼び起こす言葉である。塩は昔から防腐剤として使われており、原形を失ってもその存在が誰からも認められるものである。このテーマに入る前に、イエスの語られたメッセージから、今回は3つのポイントを簡単に学んでみようと思う。マルコ9章38ー50節を読んでいただきたい。 まず第一に、イエスの語られた言葉から教会の協力とその働きの拡大にポイントを置いて見てみたい。38節には、「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」とのヨハネの言葉が書かれている。自分たちの仲間ではないとの理由で、イエスの名で悪霊を追い出すこと…
 
今回は、「三日の後に、人の子はよみがえる。」(マルコ9:31)からのメッセージです。 人間の常識では到底理解できないイエスの言葉をとりあげます。マルコ9章30-37節までを読んでいただきたい。人の子との表現をイエスは、メシアであるご自身を指示して何度も使っています。メシアであるイエスが、殺されて、三日の後によみがえられる。そのことを弟子たちに語るのは今回で二回目である。一回目はマルコ8章31節に、そして、三回目はマルコ10章33、34節に書かれています。そのたびごとに、弟子たちは戸惑い、そのみことばが理解できず、そのことをイエスに尋ねるのを恐れたようである。 私も弟子たちの気持ちがわかるような気がする。それは、私も聖書を読み始めた頃、イエスの十字架の上での愛、いくつかの奇跡や、その語られたみ…
 
今回は、「信じる者には、どんな事でもできる。」(マルコ9:23)からのメッセージです。大いに私たち信仰者を励ます言葉であると私は思います。まずその背景を考えてみましょう。マルコ9章14-29節までを読んでいただきたい。悪霊につかれたむすことそのお父さんが登場する。イエスの弟子たちはその悪霊を追い出そうとするが、できない。そのような背景があって、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのですか」と尋ねられ、父親は答える。「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますならば、わたしどもをあわれんでお助けください。」(22節)と。その時にイエスが言われたこと、「もしできれば、と言うのか。信じる者には、どんな事でもできる。」が、今日のテーマの…
 
 今回は、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(マルコ9:7)からのメッセージです。 高い山に、イエスがペテロとヤコブとヨハネだけを連れて行き、彼らの目の前で御姿が変わった時に、神が彼らに語った言葉である。マルコ9:1-8までを読んでいただきたい。イエスの御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」と書かれている。3人の弟子たちは光輝く栄光のイエスを見ることになる。そして、旧約聖書の中で最も偉大なエリヤとモーセが表れ、イエスと語り合っていたとある。その姿をみたペテロが口出しして言う。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。」と。幕屋を造って少しでもこの栄光の姿を見続けていたいとの思いであっ…
 
今回は、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)からのメッセージです。 覚えておられるだろうか?ペテロはイエスに対して「あなたは、キリストです。」と信仰告白をしたことを。ペテロは、救い主であるイエスこそ、栄光の王、支配者であり、ローマの支配から解放しれくださる方であるとの希望を持つに至ったようである。それなのに、この救い主について、「必ず多くの苦しみを受け、・・・捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と、イエスは語りはじめる。ペテロは、そんなイエスをわきにお連れして、いさめ始めたとある(32節)。「先生そんなことがあるはずはありません。そんなことを決して言ってはいけません。」そのように語ったのではないかと私は思う。そんなペテロに対して、「下…
 
今回は、「あなたは、キリストです。」(マルコ8:29)からのメッセージです。 これは、ペテロの信仰告白の言葉であり、教会の基礎となる言葉です。まず、その言葉の背景を考えてみます。マルコ8:27-38を読んでいただきたい。6章に戻ると、5000人の給食の後で、弟子たちは湖の上を歩いているイエスを目撃することとなり、彼らの心中の驚きは非常なものであったとある(マルコ6:51)。7章では、耳が聞こえず、口のきけない人の癒しを弟子たちは目撃する。人々は非常に驚いて、「この方のなさったことは、みなすばらしい。」と言ったと書かれています。8章でも盲人の癒しを弟子たちは目撃することとなる。驚くべき奇跡を目撃した弟子たちに、イエスは、「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と尋ねられる(8:27)。弟子た…
 
今回は、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」(マルコ8:15)からのメッセージです。まず、この言葉が語られたその背景を述べ、その意味について考えていきます。マルコ8:11-21を読んでいただきたい。イエスは7つのパンを用いて4000人もの食事を提供する。7つのパンと少しの魚を取って感謝して、それを裂き、弟子たちを通して群衆に配っていく。驚くべき奇跡を弟子たちと一緒になしていく。この奇跡は、3日もイエスといっしょにいて、食べる物を持たないかわいそうな群衆のためになした神のご配慮溢れる業である。そのことを目撃し体験しながら、パンを一つしか持っていないということで、互いに議論し始めたとある(16節)。その議論の内容は書かれていないので、ぜひ想像してみてほしい。もっと持って…
 
今回は、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」(マルコ7:20)からのメッセージです。 イエスが来られたのは、私たちの内側のきよめのためであることをご一緒に学べればと願っています。まず、マルコ7:1-23を読んでいただきたい。パリサイ人や律法学者たちは、弟子たちが汚れた手でパンを食べている者があるのを見て、イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか」と尋ねた(5節)。これは、手を洗わないと言うことではなく、言い伝えにしたがった儀式的な方法で手を洗わなかったことを責めているのです。当時のパリサイ人たちは旧約聖書の教えよりも言い伝えに重点を置き、旧約聖書の教えを守らない教えがまん延してしまったようである。儀式的な方法で手を洗わ…
 
今回は、「何でもほしい物を言いなさい。」(マルコ6:22)からのメッセージです。 ヘロデ王が自分の娘が客の前で踊りを踊り、ヘロデも列席の人々も喜んだ時に、ヘロデ王が発した言葉である。マルコ6:14-29を読んでいただきたい。バプテスマのヨハネがヘロデ王に殺されてしまう悲しい出来事が書かれている。聖書は人間の良い面も悪い面も包み隠さず記録している。イスラエルの歴史そのものも、良いこと悪いことで満ちている。このような人間の罪深い姿に触れる時に、私たちクリスチャンは、同じ間違いをしないようにと祈らされ、知恵深い人生を生きれるようにと聖霊によって励まされる。 ここで登場するヘロデ王は、ヘロデ・アンテパス王で自分の兄弟の妻を自分のものとしていたようである。そのことを批判したヨハネをこの機会にと殺すこと…
 
午前_前半 このブラウザでは再生できません。 再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら 午前_後半 このブラウザでは再生できません。 再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら 午後_前半 このブラウザでは再生できません。 再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら 午後_後半 このブラウザでは再生できません。 再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら 190923IBF黙示録スライド.pdfIBF による
 
マタイ24章45節にイエスは「忠実な思慮深いしもべとはいったいだれでしょうか」と弟子たちに問いかけている。そして、ともしびを持って花婿を出迎える10人の娘の中から5人の愚かな娘と5人の賢い娘の話をして、油を用意することの大切さを指摘している。油とは信仰者に働く聖霊であると理解できる。聖霊は思慮深さを与えてくれる。聖霊の導きの中にもっと身を委ねたいものである。次に5タラント、2タラント、1タラントを主人から預かったしもべの話をし、同じ額をもうけたしもべに、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたがたはわずかなものに忠実だったから、たくさんのものを任せよう」と主人の心が語られている。失敗してもいいではないか、神様から多くの物を委ねられて、それを神様の栄光のために忠実に用いて行こうではないか。 こ…
 
ヨハネ12章24節には、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とある。アイダホの大地を車で走っているとどこまでも続く麦畑の壮大さに目を奪われる。この小麦も秋に種をまき、冬の雪にとざされ、雪が解けると芽が出て緑の丘になり、それが黄金に輝く丘に変わり、豊かな収穫の時期を迎える。このように一粒の麦も死んで初めて、後に豊かな実を結んでいくことが分かる。どんなクリスチャンも自らの自己中心性にキリストと共に死に、キリストの命に生かされることを体験する。自己的な人生から解放されて、豊かな実を結んでいく。これこそが信仰者の特権であリ真理である。キリストが愛されたように互いに愛し合う、その新しい戒めを、自我に死んで体験する者とさせていただこう。…
 
詩篇23編はぜひ暗記してほしい詩篇の一つである。「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。」その告白のように、神様は私たちの必要を満たしてくださる。その信仰を新たにして行こう。主イエスが与えてくださる義は決して、私たちの行ないで獲得できるものではない。私たちを愛して自ら進んで十字架の上で尊い命を犠牲にして与えてくださったものである。キリストの十字架のゆえに私たちは神の前に立つ事が出来、神の子とさせていただくのである。その愛ゆえに私たちは義の道にみちびかれるのである。死の陰の谷を歩むことがあってもキリストは私たちのために戦い祈ってくださっている。そのような神様であるので、私の命の日の限り、いつくしみと恵みとが私を追ってくると告白することができる。共に賛美、感謝を持って主の家に住む者とさせて…
 
「人を育てよう」、このテーマについて何度もその大切さについて語っている。バルナバによって育てられたパウロはテモテに手紙を書いている。「敬虔のために自分を鍛錬しなさい。年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」と(Ⅰテモテ4章)。信者の模範となって生きる、このことは私たち一人一人へのチャレンジである。箴言31章は母親が息子の王子に書いた戒めのことばである。自分の使命を忘れないように、よい家庭を築けるようにと、女と酒を控えて、貧しい者の声を聞くようにと勧めている。「しっかりとした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」聖書のみことばに耳をすまして、良い模範を心に…
 
「人を育てよう」、このテーマについて何度もその大切さについて語っている。人を育てる教会でなければ将来は実に限られるからだ。バルナバもそうである。彼がパウロを育てたがゆえに、今のキリスト教会が存在すると言っても過言ではない。かつてのパウロはユダヤ教徒として、キリスト者を迫害することに使命を覚えていた。そのパウロも使徒9章でキリストに出会う体験をする。このパウロを使徒たちに紹介したのもバルナバである(9:27)。バルナバは神の恵みを見て喜び、主に留まるように励まし、りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であったと紹介されている(11:23)。彼はパウロと一緒に教会に集まり、多くの弟子たちを育てていった(28)。時間を共にし、喜びや迫害を共にする。人の可能性を信じ続け、そして育てた者が自分の先に…
 
神様が立てられた預言者エリシャにも終わりの時が訪れる。彼が油を注いだ北イスラエルの王エフーの孫にあたるヨアシュ王がエリシャに会いに来る。エフーもその子エホアハズ王もエリシャを通して、神様の働きを目にする。第二列王記13章4節にはエホアハズが主に願ったので、主が一人の救い手を与えて、イスラエルの人々はアラムの支配を脱したとある。この王も神様への祈りの力を体験することとなる。そのことを見ていたユアシュ王は神への信仰を持つことができたはずであるが、エリシャに促されて打った主の勝利の矢も三度打ったがそれでやめたとある(18節)。エリシャは言う、「あなたは五回、六回打つべきだった。そうすれば敵を打ち滅ぼしたことだろう」と。信仰とは不思議である。成長したい、もっと神様を体験したい、そう願って生きる信仰者…
 
第二列王記8章に新たにゲハジが登場する。彼は5章で将軍ナアマンがらい病から癒された時にエリシャにささげられた贈り物に目がくらんで、それをもらいに行き、エリシャに内緒に宝を隠してしまい、嘘をつき、その結果、らい病にかかってしまったと記されている。このゲハジの今後に何が起こったのであろうか?悔い改めて7章に出てくる4人のらい病人の頭としてサマリアの町を救ったとも理解することが可能である。私はあえてそのように解釈したい。だれでも失敗を乗り越えて、神の許しと癒しを体験することができる、これこそ神様の愛がもたらす奇跡であるからだ。そう考えるとこのゲハジが王の前に招かれ、エリシャのなした数々の奇跡を紹介するように依頼されたことも納得する。それだけではない、この8章は神が与えるベストタイミングがあることを…
 
ナアマンはアラムの王に仕える、忠実で正義感あふれる将軍であった(Ⅱ列王5:1)。しかし、彼は勇士ではあったが、らい病にかかっていたと紹介されている。ナアマンは、かつてイスラエルから捕えてきた若い娘の言葉に耳を傾ける。「もし、ご主人さまが、サマリアにいる預言者の所に行かれたら、きっとあの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」この言葉を信じて自分の多くの財産を持ってこの預言者に会いに出かける。しかし、エリシャは彼に会うことなく使いを送り、ヨルダン川へ行って七たび身を洗いなさいと告げさせる。ナアマンは怒って家に帰ろうとする。しかし家来が彼に近づき、信じて試してみようとチャレンジをする。信じて従ってみる。これが神様の奇跡を体験する一歩である。私はこれから主にのみ礼拝をする者になります、…
 
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