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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】26.尊王攘夷

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8.幕末内外の情勢

(1)海外情勢の緊迫と海防攘夷論

幕末内外情勢の概観

江戸幕府の政治は将軍家齊(いえなり)の頃には既に積弊が激しくなり、武士も質実剛健の気風を失って奢侈遊惰(しゃしゆうだ)に流れ、幕府の衰亡は既に著しいものがあった。

この時鎖国による江戸時代に百六十五年の泰平の夢から幕末の我が国民を覚醒せしめたものは、外ならぬ欧米諸国の東亜侵寇(しんこう)の魔手であったが、このことは時局をますます紛糾(ふんきゅう)せしめて幕府の衰滅を早からしめるとともに、期せずして國民上下の緊張を促し、やがてそれが尊王攘夷運動となって天下に盛行し、遂に明治維新を促進し奉ったのが、幕末に於ける我が内外の情勢である。

世界情勢の推移

寛永の鎖国以来約百五十年の間に世界の形勢は大いに変化した。

かつて世界の制海権を握って東亜侵略を擅(ほしいまま)にしたイスパニヤ・ポルトガル両国は既に昔日(せきじつ)の面影なく、これに代わって江戸時代の初期、諸方に廣大な植民地を占めて一時は航海・貿易の覇権を握ったオランダも、やがて商利に走って植民地経営に失敗するや、これに代わって東亜に猛威を振ひ始めたのがイギリスである。

イギリスの太平洋経略

イギリスは江戸中期には既にインドの大半を領有して東印度会社をしてこれを統治せしめてゐたが、我が桃園天皇の宝暦7年(皇紀2417)、ムガール帝国を滅してこれを直轄(ちょっかつ)してからは、シンガポールを固め、マラッカを奪って東亜侵略の根拠地たらしめるとともに、支那に迫って商権の拡張を図り、次第にその侵略に狂奔(きょうほん)しつつあった。

イギリスが阿片(あへん)戦争の結果、支那から香港を奪って支那經営の據點(拠点)としたのは、實に第120代仁孝(にんこう)天皇の天保13年(皇紀2502)のことであった。

これよりさきイギリスは 第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇の御代、ジェームス=クックがオーストラリヤ・ニュージーランドを探検して以来、大いにその柘植(たくしょく)に努め、かくてイギリスの東亜侵略の魔手は次第に我が国に迫らうとする形勢にあった。

アメリカの勃興

アメリカは後桃園天皇の安永(あんえい)5年(2436)にイギリスから独立した時、これに加盟したのは大西洋岸の僅か十三州だけであったが、爾来次第に英・佛・西・墨(メキシコ)諸国の領土を併呑(へいどん)して仁孝(にんこう)天皇の弘化(こうか)3年(2506)、早くもその領土は太平洋岸に達した。

これからアメリカは次第に太平洋に利害関係を持つやうになり、やがて北太平洋の捕鯨(ほげい)事業と支那の交通のため、我が近海に出没しはじめた。

フランスの東亜侵略

またフランスは、これよりさき印度に於いてイギリスと領土獲得を争って敗れたため、これに代はる植民地を求めて先づ印度支那半島に着目し、我が天明(てんめい)の頃から安南の内乱に干渉して次第にその勢力を半島に伸張しはじめたが、次いで支那を経て我が琉球にその魔手を伸し、弘化年間からは軍隊を屢々(しばしば)琉球に来航せしめはじめた。

フランスはやがて安南を保護国としたが、清佛戦役に勝って印度支那を占領したのは、實に我が明治18年(皇紀2545)のことであり、イギリスは対抗上、その翌年になってビルマを併合した。

ロシアの東亜進出

また、ロシヤはその名が世界市場に現れたのは、我が室町時代に蒙古の束縛から離れて独立した時にはじまるが、大陸の真只中に建国して港湾を持たないこの国の歴史は、実に港湾獲得のための努力と侵略の歴史であった。

就中東方への進出は我が正親町(おおぎまち)天皇の御代、はじめてシベリヤ経営に着手した時にはじまり、やがて江戸時代初期にはオホーツク海からカムチャッカ半島を経由して遂に太平洋に達したが、天和年間ペートル大帝が起つや、清とネルチンスク条約を結んで外興安嶺(がいこうあんれい)以北を領有し、更に嘉永年間支那に長髪族の乱、ついで英仏連合軍の支那侵入が起こるや、その隙に乗じて今の沿海州全部を占有し、更に南下して満州に迫ろうとする形勢を示し始めた。

またこれよりさき我が宝暦年間女帝カザリン二世が即位するや、女帝は東亜の経営に力を注ぎ、イルクーツクに日本語学校を立てて我が国を窺(うかが)ひ、やがて艦船を千島・樺太近海に出してこれを荒掠(こうりゃく)せしめるやうになり、ここにロシヤの東亜進出は直接我が国を脅かし始めた。

露人の北邊荒掠(ほくへんこうりゃく)

かくて植民地の獲得と経営に狂奔して次第に東亜に勢力を伸ばしはじめた欧米諸国の侵略の魔手は、先づ北邊に対するロシヤの侵害となって現はれた。

林子平(はやししへい)がこのやうな海外情勢の緊迫を鑑(かんが)みて、我が国の海国である所以を明らかにし、海防の急務を説いたのはこの時のことであるが、世界情勢に暗い幕府は頑迷(がんめい)にもこの卓見を壓(圧)迫した。

ところが程なくロシヤの使節ラックスマン・レザノフが相次いで我が国に来航し、通商を求めるに及んで幕府は初めて海防の必要を悟り、急に北辺防備の対策を講じたが、幕府に通商を拒絶せられたロシヤの我が北辺荒掠はますます頻繁(ひんぱん)となっていった。

最上徳内(もがみとくない)・近藤重蔵(こんどうちょうぞう)などが千島を巡視し、間宮林蔵(まみやりんぞう)が樺太を探検して黒竜江(こくりゅうこう)沿岸にまで調査を進めたのは、実にこの当時のことであった。

英艦の狼藉

次いで外寇(がいこう)は英艦の狼藉(ろうぜき)となって現れた。

当時ヨーロッパに於いてはナポレオンが大陸諸国を席巻(せっけん)し、イギリスはフランスと交戦中であったが、オランダがフランスの属領となるに及んで英艦はオランダ船舶を求めて我が近海に出没し、文化5年(2468)には長崎港内に闖入(ちんにゅう)して狼藉を敢えてするやうな事件さへ起った。

尊皇攘夷論の勃興

その後も英船はしばしば近海に現れ、頻(しき)りに掠奪を行ふに及び海防攘夷(かいぼうじょうい)の論は猛然と起った。

就中水戸学に培はれた水戸藩からは藤田幽谷(ふじたゆうこく)をはじめ、曾澤正志齋(あいざわせいしさい)・藤田東湖(ふじたとうこ)等が出て、我が金甌無缺(きんおうむけつ)の國體を擁護し奉らうとする憂国勤皇の熱誠を以て、大いに尊皇攘夷の論を鼓吹(こすい)し国民を覚醒せしめるとともに、幕府の政策にも大きな刺戟を與(あた)へた。

ここに於いて文政(ぶんせい)8年(2485)、幕府は遂に外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)を発するとともに、海防の強化を企て軍備の充実を図り始めたが、諸藩に於いても水戸藩主徳川斉昭(なりあき)をはじめとして、時勢に目覚めて攘夷の指揮を鼓舞するとともに、海防の充実に努めるものも少なくなかった。

幕府対外政策の動揺

しかし軍備の充実は一朝には成らず、殊に幕府の財政は既に窮乏して海防の施設も容易に進捗せず、たまたま阿片戦争が勃発して清が英軍に破られるに及んで幕府の対外方針は動揺を来たし、天保13年(2502)には外国船打払令を撤回した。

海防論の展開

阿片戦争に敗れた清はイギリスと南京条約を結んで香港を割譲するとともに、廣東(かんとん)その他の五港を開いて講和(こうわ)したが、これは欧米諸国に東亜侵略の據點(きょてん)を与へるものであった。

さればこのことは我が識者の海外認識を大いに深め、天保の末に高島秋帆(たかしましゅうはん)・佐久間象山(さくましょうざん)等は軍備の不備を指摘し、清の配線に鑑みて海防を厳ならしめるため多数の洋式火器・戦艦を建造し、水軍を養成することの急務を大いに力説し、やがて弘化(こうか)・嘉永(かえい)に至るや、多くの憂国の志士が攘夷・開国の華々しい論策を展開するやうになった。

尊皇攘夷の鼓吹

神州は太陽の出づる所、元気の始まる所、天日(てんじつ)の嗣、世々宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず、固(まこと)に大地の元首にして、万国の綱紀なり。

誠に宜しく宇内(うだい)を照臨(しょうりん)し、皇化の曁(及)ぶ所、遠邇(えんじ)有る無かるべし。

今、西荒蠻夷(せいこうばんい)、脛足(けいそく)の賤(せん)を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履(びょうしはり)、敢て上國を凌駕(りょうが)せんと欲す。

何ぞそれ驕(けふ)なるや。

(会澤正志齋「新論」)

尊皇攘夷の鼓吹

堂々たる神州天日の嗣、世々神器(じんき)を奉じて万邦に君臨す。

上下内外の分、猶天地の易(か)ふべからざるが如し。

然れば即ち尊皇攘夷は實に志士仁人忠を盡し、国に報ずるの大義なり。

(藤田東湖「弘道館記述義」)

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幕末内外情勢の概観

江戸幕府の政治は将軍家齊(いえなり)の頃には既に積弊が激しくなり、武士も質実剛健の気風を失って奢侈遊惰(しゃしゆうだ)に流れ、幕府の衰亡は既に著しいものがあった。

この時鎖国による江戸時代に百六十五年の泰平の夢から幕末の我が国民を覚醒せしめたものは、外ならぬ欧米諸国の東亜侵寇(しんこう)の魔手であったが、このことは時局をますます紛糾(ふんきゅう)せしめて幕府の衰滅を早からしめるとともに、期せずして國民上下の緊張を促し、やがてそれが尊王攘夷運動となって天下に盛行し、遂に明治維新を促進し奉ったのが、幕末に於ける我が内外の情勢である。

世界情勢の推移

寛永の鎖国以来約百五十年の間に世界の形勢は大いに変化した。

かつて世界の制海権を握って東亜侵略を擅(ほしいまま)にしたイスパニヤ・ポルトガル両国は既に昔日(せきじつ)の面影なく、これに代わって江戸時代の初期、諸方に廣大な植民地を占めて一時は航海・貿易の覇権を握ったオランダも、やがて商利に走って植民地経営に失敗するや、これに代わって東亜に猛威を振ひ始めたのがイギリスである。

イギリスの太平洋経略

イギリスは江戸中期には既にインドの大半を領有して東印度会社をしてこれを統治せしめてゐたが、我が桃園天皇の宝暦7年(皇紀2417)、ムガール帝国を滅してこれを直轄(ちょっかつ)してからは、シンガポールを固め、マラッカを奪って東亜侵略の根拠地たらしめるとともに、支那に迫って商権の拡張を図り、次第にその侵略に狂奔(きょうほん)しつつあった。

イギリスが阿片(あへん)戦争の結果、支那から香港を奪って支那經営の據點(拠点)としたのは、實に第120代仁孝(にんこう)天皇の天保13年(皇紀2502)のことであった。

これよりさきイギリスは 第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇の御代、ジェームス=クックがオーストラリヤ・ニュージーランドを探検して以来、大いにその柘植(たくしょく)に努め、かくてイギリスの東亜侵略の魔手は次第に我が国に迫らうとする形勢にあった。

アメリカの勃興

アメリカは後桃園天皇の安永(あんえい)5年(2436)にイギリスから独立した時、これに加盟したのは大西洋岸の僅か十三州だけであったが、爾来次第に英・佛・西・墨(メキシコ)諸国の領土を併呑(へいどん)して仁孝(にんこう)天皇の弘化(こうか)3年(2506)、早くもその領土は太平洋岸に達した。

これからアメリカは次第に太平洋に利害関係を持つやうになり、やがて北太平洋の捕鯨(ほげい)事業と支那の交通のため、我が近海に出没しはじめた。

フランスの東亜侵略

またフランスは、これよりさき印度に於いてイギリスと領土獲得を争って敗れたため、これに代はる植民地を求めて先づ印度支那半島に着目し、我が天明(てんめい)の頃から安南の内乱に干渉して次第にその勢力を半島に伸張しはじめたが、次いで支那を経て我が琉球にその魔手を伸し、弘化年間からは軍隊を屢々(しばしば)琉球に来航せしめはじめた。

フランスはやがて安南を保護国としたが、清佛戦役に勝って印度支那を占領したのは、實に我が明治18年(皇紀2545)のことであり、イギリスは対抗上、その翌年になってビルマを併合した。

ロシアの東亜進出

また、ロシヤはその名が世界市場に現れたのは、我が室町時代に蒙古の束縛から離れて独立した時にはじまるが、大陸の真只中に建国して港湾を持たないこの国の歴史は、実に港湾獲得のための努力と侵略の歴史であった。

就中東方への進出は我が正親町(おおぎまち)天皇の御代、はじめてシベリヤ経営に着手した時にはじまり、やがて江戸時代初期にはオホーツク海からカムチャッカ半島を経由して遂に太平洋に達したが、天和年間ペートル大帝が起つや、清とネルチンスク条約を結んで外興安嶺(がいこうあんれい)以北を領有し、更に嘉永年間支那に長髪族の乱、ついで英仏連合軍の支那侵入が起こるや、その隙に乗じて今の沿海州全部を占有し、更に南下して満州に迫ろうとする形勢を示し始めた。

またこれよりさき我が宝暦年間女帝カザリン二世が即位するや、女帝は東亜の経営に力を注ぎ、イルクーツクに日本語学校を立てて我が国を窺(うかが)ひ、やがて艦船を千島・樺太近海に出してこれを荒掠(こうりゃく)せしめるやうになり、ここにロシヤの東亜進出は直接我が国を脅かし始めた。

露人の北邊荒掠(ほくへんこうりゃく)

かくて植民地の獲得と経営に狂奔して次第に東亜に勢力を伸ばしはじめた欧米諸国の侵略の魔手は、先づ北邊に対するロシヤの侵害となって現はれた。

林子平(はやししへい)がこのやうな海外情勢の緊迫を鑑(かんが)みて、我が国の海国である所以を明らかにし、海防の急務を説いたのはこの時のことであるが、世界情勢に暗い幕府は頑迷(がんめい)にもこの卓見を壓(圧)迫した。

ところが程なくロシヤの使節ラックスマン・レザノフが相次いで我が国に来航し、通商を求めるに及んで幕府は初めて海防の必要を悟り、急に北辺防備の対策を講じたが、幕府に通商を拒絶せられたロシヤの我が北辺荒掠はますます頻繁(ひんぱん)となっていった。

最上徳内(もがみとくない)・近藤重蔵(こんどうちょうぞう)などが千島を巡視し、間宮林蔵(まみやりんぞう)が樺太を探検して黒竜江(こくりゅうこう)沿岸にまで調査を進めたのは、実にこの当時のことであった。

英艦の狼藉

次いで外寇(がいこう)は英艦の狼藉(ろうぜき)となって現れた。

当時ヨーロッパに於いてはナポレオンが大陸諸国を席巻(せっけん)し、イギリスはフランスと交戦中であったが、オランダがフランスの属領となるに及んで英艦はオランダ船舶を求めて我が近海に出没し、文化5年(2468)には長崎港内に闖入(ちんにゅう)して狼藉を敢えてするやうな事件さへ起った。

尊皇攘夷論の勃興

その後も英船はしばしば近海に現れ、頻(しき)りに掠奪を行ふに及び海防攘夷(かいぼうじょうい)の論は猛然と起った。

就中水戸学に培はれた水戸藩からは藤田幽谷(ふじたゆうこく)をはじめ、曾澤正志齋(あいざわせいしさい)・藤田東湖(ふじたとうこ)等が出て、我が金甌無缺(きんおうむけつ)の國體を擁護し奉らうとする憂国勤皇の熱誠を以て、大いに尊皇攘夷の論を鼓吹(こすい)し国民を覚醒せしめるとともに、幕府の政策にも大きな刺戟を與(あた)へた。

ここに於いて文政(ぶんせい)8年(2485)、幕府は遂に外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)を発するとともに、海防の強化を企て軍備の充実を図り始めたが、諸藩に於いても水戸藩主徳川斉昭(なりあき)をはじめとして、時勢に目覚めて攘夷の指揮を鼓舞するとともに、海防の充実に努めるものも少なくなかった。

幕府対外政策の動揺

しかし軍備の充実は一朝には成らず、殊に幕府の財政は既に窮乏して海防の施設も容易に進捗せず、たまたま阿片戦争が勃発して清が英軍に破られるに及んで幕府の対外方針は動揺を来たし、天保13年(2502)には外国船打払令を撤回した。

海防論の展開

阿片戦争に敗れた清はイギリスと南京条約を結んで香港を割譲するとともに、廣東(かんとん)その他の五港を開いて講和(こうわ)したが、これは欧米諸国に東亜侵略の據點(きょてん)を与へるものであった。

さればこのことは我が識者の海外認識を大いに深め、天保の末に高島秋帆(たかしましゅうはん)・佐久間象山(さくましょうざん)等は軍備の不備を指摘し、清の配線に鑑みて海防を厳ならしめるため多数の洋式火器・戦艦を建造し、水軍を養成することの急務を大いに力説し、やがて弘化(こうか)・嘉永(かえい)に至るや、多くの憂国の志士が攘夷・開国の華々しい論策を展開するやうになった。

尊皇攘夷の鼓吹

神州は太陽の出づる所、元気の始まる所、天日(てんじつ)の嗣、世々宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず、固(まこと)に大地の元首にして、万国の綱紀なり。

誠に宜しく宇内(うだい)を照臨(しょうりん)し、皇化の曁(及)ぶ所、遠邇(えんじ)有る無かるべし。

今、西荒蠻夷(せいこうばんい)、脛足(けいそく)の賤(せん)を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履(びょうしはり)、敢て上國を凌駕(りょうが)せんと欲す。

何ぞそれ驕(けふ)なるや。

(会澤正志齋「新論」)

尊皇攘夷の鼓吹

堂々たる神州天日の嗣、世々神器(じんき)を奉じて万邦に君臨す。

上下内外の分、猶天地の易(か)ふべからざるが如し。

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